(第2回)法は善および衡平の術である

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2018.10.24
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。

(不定期更新)

まず、日本人が「法」という言葉をどのように受けとめているかの点についてであるが、これには歴史的由来が強く影をおとしており、20世紀の今日においても、われわれはその影響から脱却しきれていないようである。現代のわれわれにとって、「法」と言うと大体は「法律(制定法などの成文の規範)」がまず連想される。多分、中国の影響もあってのことだろう。「法」という字は、今は簡略な形になっているけれども、もとはおそろしく複雑な字で(字の部分ごとに意味を加えていくと、「人間の掟・法として道徳善を勧め、有罪者を罰し、社会に正義を実現させる」となる)、4世紀中ごろ以降に中国から到来したらしい。当初はたんなる表音文字(ホウ)として用いられるにすぎなかったが、のちに「ノリ」という訓と結びついて一定の概念を含むものとなり、中世以降に再びその訓が捨てられ、現在のような読み方・意義を持つものとなったと説明される。このような由来もあって、「法」は最古の氏族社会以来、「権威・権力・支配力を持つ者によって述べられ告げられたもの」、「他律的な規範で、服従・遵守を人に強いるもの」というようにうけとめられた。中国においても法は刑法やひろく公法のかたちをとって国民の前にたちはだかるのが普通だったし、日本においてもそうであったから、法と言うと、支配者から下へとおろされてくるものと観念されがちなのはやむをえない。現代において「法」のイメージが、つぎに述べるようにもう1つパッとしないのもわかるような気がする。欧米の場合、「法」という言葉それ自体が「正しさ」、「正義」の契機をかなり強く示しているので、法についての国民のうけとり方がプラスの方向に振れるのではないかと考えている。

つぎに、「法」について日本人一般がどのようなイメージを抱いているかをみてみよう。第1グループは、さきの法格言に集約された欧米風の考え方の流れに位置するものであり、どちらかと言えば、タテマエ的な命題群で、言っている人が何やら背のびしているような匂いもないではない。「法は人間生活上の紛争を解決してくれる」、「犯罪を抑え、処罰し、社会の秩序を維持してくれる」、「すべての人々の利益を平等に守ってくれる」、「国家権力に制約を加えることによって強大な国家権力から国民を守ってくれる」、「法がなければ社会生活も経済生活もうまくいかない」、「人情とか互譲とか和の精神とかいうのは言葉はよいが、結局は腕力の強い者に有利にしか働かない。法は本当に頼りになるものだ」、「法の本当の有難さというのは、無実の罪を着せられようとしたときに身にしみてわかる。世間の人は苦労知らずだから法の真価が理解できていないだけだ。人の性は善であるというのはウソで、法がしっかりと見張っているからこそ平和が保てるのだ」、「法に不便はつきものである。法とつきあっていくのに手間や時間がかかるのは大きな利益にともなう小さな出費である」などなど。

第2グループは日本人の好きなホンネをズバリ表現したもので、第1グループが法へのプラス・イメージを描いているのに対し、こちらの方ではマイナス・イメージがどうしても顔を出してくる。「法はわれわれの知らないところで勝手に作られ、上からおしつけられてくる」、「法と聞くと、何か自由が束縛されるような感じがして、いやだ」、「おカミの御威光、国家権力の象徴としての法を破ることにこの上ない快感を覚える」、「『さわらぬ神にたたりなし』、『泣く子と地頭には勝てぬ』、『長いものには巻かれろ』というような感じでもって法律に接している」、「冷たい感じがしていやだ」、「法によって物事を処理しようとすると、とかく杓子定規になるし、『みずくさい』といって嫌われてしまう」、「法律にも裁判所にもかかわりを持たなかったのが私の一生の自慢です」、「私は法律に無知であることを誇りにしている」、「法律は和の精神への歓迎すべからざる闖入者だ」、「法律というのは、実際のところ弱い者の味方ではなく、結局は、それを悪用し、その保護のなかでうまくたちまわる奴を守る虫の好かない代物だ」、「小悪には強いが、巨悪には手も足もでない張子の虎」、「『赤信号みんなで渡ればこわくない』程度のいいかげんなものだ」、「まあ一応の基準というところかな」、「法律を守る者はバカを見ることが多いし、ときには愚か者でさえある」、「法律は特定の人の利益になるように作られているとカンぐりたくなるようなものだ」、「法は権力者の支配の道具である」、「一種の必要悪なり」、「法は決して正義の味方なんかではない。本当に助けを求めている者には冷たい」、「法網をうまくかいくぐって正義を具現してくれる大岡越前守のような人物こそ裁判官の理想像である」、などなど。

最後に、もし日本人が欧米人ほどは法に期待をかけていないとした場合に、法の目的である善とか衡平とか正義とかはいったい何を通じて達成されているのだろうか? どのような社会もそれらなしでは成り立たないわけだから、欧米の法の役割の一部を担う何かがあるはずである。日本の現代も含めて考えてみると、モラル(道徳)、礼、倫理、道、慣習、慣行、義理、儀礼、人情、道義、道理、良心、宗教などがそれにあたるのであろう。つまり、法のとりしきるテリトリーが欧米では大きく、日本では小さいということになろうか。別の見方からすると、法の概念の持つ中味が、欧米の場合、他の規範=社会的ルールを吸引して大きくふくらみ前面に立っているのに対して、日本では、法はタテマエ上は(表向きは)第一級の規範ではあるが、ホンネでは(実際は)中級程度の規範として、固い殼を持ったまま目立たないところに鎮座しているのである。

話を元に戻そう。日本の裁判所や広く法律家の支配する世界で法が取り扱われるかぎりにおいて、この法が欧米譲りの価値、機能を帯びつつ動いていくのは当然であり、筆者もそのことを認めないわけではない(日本の固有の法思考が生きのびているのは、裁判所に象徴される巨大な法機構の外側・裏側においてだけである)。そのような表舞台においては、「法は善および衡平の術である」というような格言の精神は十分生きていると信ずる。現に、各裁判官は、各人各様の言葉や概念でもって法なるものを解析して具体的事件にあてはめ、妥当な解決をひきだそうと努力しているのである。「社会的正義」、「公共の福祉」(これはさきの格言の「善(ボヌム)」に相当しよう)とか、「公平」(これは「衡平」に相当しよう)とか表現は異なるが、これらは、いずれも法が目指すべき価値を示したものである。

以上、第1回第2回では入門の入門部として、日本固有の法のあり方について若干の原理的考察を試みたが、さらに、この線上において第3回(「非理法権天」)以下の法格言を手がかりとして議論をすすめよう。

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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。

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