(第4回)理の嵩じたるは非の一倍
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。
(不定期更新)
「北条氏直時代諺留」および「世話尽」に見えるもの。簡単に「理が非になる」とも言う。
理も度がすぎれば、かえって非におちいる、ということか。この点については同趣旨のラテン語格言の方が圧倒的に有名であろう。「法の極みは不法の極み( Summum jūs summa injūria )』(「法の極致は不法の極致」、「正の極致は不法の極致」、「法の極は害の極」などと訳されることもある)、別の表現で「法の窮境は法でない( Apicēs jūris nōn sunt jūra )」というのもある。一つの解釈によるなら、法の目的の一つである正義をどこまでも貫いていくと、いつのまにか不正義のゾーンに入ってしまったあげく、不正義=悪を生みだしてしまうケースが時にあることをいましめたもので、法に深い造詣を持ちながら、それへの反撥も隠さなかった偉大なローマの哲学者・政治家であるキケロー(前1世紀)の言として伝わっている。
もっと物騒なものがある。「世界滅びるとも正義行なわれよ( Fīat jūstitia ruat caelum )」「正義が行なわれて世界が滅びよ( Fīat jūstitia et pereat mundus )」とも言う。多分、第三次世界大戦は両陣営とも同様にこのようなスローガンのもとで戦いぬくのであろう。「人間のためにこそ法がある( Hominum causā jūs cōnstitūtum est )」以上、このたぐいの正義なら実現もほどほどにしてもらいたい。
ところで、われわれは、何を学べば正と不正とを識別できるのか? かつてローマ法学者ウルピアーヌスは、「法学は、神事および人事の知識であり、正と不正の識別である( Jūrisprūdentia est dīvīnārum atque hūmānārum rērum nōtitia, jūstī atque injūstī scientia. )」と喝破したが、そのとおりに、法律学を学ぶことは、とりもなおさず、法の世界においてであれ、それをとりまく底なしの宇宙のような社会規範のとりしきる世界においてであれ、合法・違法の識別以上に、正・不正を直感的にかぎとる能力を身につけることであろう。これもリーガル・マインドの一つの中味ではないだろうか。法律を学んだ人の数パーセントしか法律専門職につけない以上、なおさらのことである。
いつも思うのだが、宗教の世界の話ならいざしらず、絶対的な正義などはたしてこの世に存在するのだろうか? 「力こそ正義なり」と言うなら話は簡単であるけれども、どちらかと言うと力(ゲバルト)には不正義の匂いの方が強い。法が求めて得られる正義というのは、せいぜいそこそこの正義、カッコつきの正義なのではないかと思う。正義の担い手のチャンピオンである検察当局は、世界に冠たる折り紙つきの優秀な機構として名高いが、それでも、死刑判決が確定したあと再審がいくつも行なわれて、現に無罪となるケースが複数で出てくると、それらを例外的現象と言ってすますことはできなくなる。「疑わしい場合には被告人の利益に」、「被告人は有罪の確定までは無罪の推定をうける」、「刑法は被告人のマーグナ・カルタである」とされるが、これらは、検察当局にも自制を求めるスローガンなのであろう。
子供のとき、自身の家から東へ東へと向っていくと、ついには地球を一周して西の方から家に帰りつくことになると教えられたが、不思議でならなかった。引力があるから宇宙へと落ちていかないことは頭で判っていても、実に奇妙なことである。正(東)へ向ってどこまでも前進するといつしか不正(西)にきてしまうのだが、思うに、正・不正は円周線または球の表面のあるゾーンなのではないだろうか。しかも、かりに円、球の中心は不動でも物体は回転する。つまり、緩慢ではあるが、正・不正を分ける緩衝地帯の位置が、時の流れのまま、それ自体の幅を広げたり狭めたりしながら、同時に右や左へ動いているのである。ある時代環境において、正・善とされたものは、物差しの移動によっていつか不正・悪に塗りかえられてしまう。
十数年前の大学紛争時代に、左翼の本流が新左翼の出現によって右方へおしやられるとともに、新左翼の方はグルリと弧を描いて右翼となにやら同じ匂いを発散しはじめたのをこの眼で見て、「万物は流転する」と悟らされたのも今は昔の物語りである。
人間の歴史は、古代―中世―近代と一直線に進歩してきたように見えながら、実は、たとえばヨーロッパについて見ると、古代の再生であるルネッサンスがひきがねになってはじめて時代は急転回を遂げているし、現代の先に来る時代は、むしろ中世的な色あいさえものぞかせている側面がなきにしもあらずなのである。進歩とか退歩とか近代化とかの価値でもって時代の流れを判定することが容易でないところにさしかかっていると言えよう。
法の世界についてのみ言うなら、近代法を彩る三つの大原則は、いまはもう昔ほどの妥当力を主張しえず、新しい意味における正義を具現する考え方によって修正をうけはじめている。「過失なければ責任なし」は「企業責任との関連では無過失・無故意でも責任を負わされる場合がありうる」となり、「所有権は絶対である」は「公共の福祉などの観点から、所有権に制約はつきものだ」となり1)、「私的自治の精神にのっとって、契約は自由であり、約束は守られるべきである」は、「文字通り自由な立場からなされる契約などそれほど多くない以上、信義誠実の原則も考慮すれば、守らなくてもよい場合もありうる」となってしまうのである。
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。
脚注
1. | ↑ | 「法律の最上の解釈者は慣習である/事物の最上の解釈者は慣習である/法はすべて正義(公平)と慣習とに由来する/よい慣習はよい法」(第8回掲載予定)参照。 |