(第6回)よき法律家は悪しき隣人

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2019.02.15
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。

(不定期更新)

さて、法律家が好感を持たれにくいのは、法や法律学それら自体の持ついけすかない性格・役割に由来するという面がかなりある。この点を若干考えてみよう。

(a)法は正義を目指すものであり、また正義を実現したものだというタテマエには誰も異論をさしはさまないだろうが、その正義なるものがお上(カミ)の考える正義――悪く言うならそれに都合のよい正義――である場合も少なからずあり、その際、庶民としては、統べられる側特有の別の論理――ホンネ――を持ちだしては法の実現する正義なるものに白い眼を向けるのである。お上(カミ)に対する不信感は現代でもなお根強いのだが、法・法律はお上(カミ)の定めるものなので、もともとうさんくさいうえに、なお不正義を行なう疑いを持たれるのだから、お上(カミ)もやりにくかろう。それに、法律家には正義漢が多いのはたしかであるけれども、法律家個人の正義感覚は現存する法律の枠内でしか発揮できない。世間には、大岡裁きのようにスカッとやってもらいたいという気持があるが、それは無理な注文というものである。

(b) 法は正義の実現とともに社会に法的な安定を生みだす重要な任務を帯びている。両者が合致すれば言うことはないのだが、そういつもうまくはいかない。極端に言えば、多少不正義になっても世の中がうまく治まればそれでよいのだという冷酷な顔も法は持つ。「国民の安寧は最高の法律である( Salūs populī suprēma lēx )」というお題目さえならべれば何でもできるのである。そのためには、法は、どうしても、処理が容易なように、あらかじめ一定の枠組みをこしらえて、社会の諸事象を類型化してそこへはめこもうとする。枠組みは簡明・単純であるほどよいわけだから、どうしてもそこからはみ出るものが出てくるが、とりあえずはそれを切捨て、別のかたちで面倒をみるという扱いにならざるをえない(かなりの場合、それもしてくれないのだが)。「○○の訴えに冷たい法の壁」と言われる現象がこれである。「法は何もかも杓子定規にしか処理してくれない」という不満も根強いが、これは法が形式優先・形式尊重にならざるをえない性格をもともと帯びているためで、容易には解決できない永遠のテーマとも言えよう。また、逆に、法が自らの設定した枠組みの外には手を出せない点をうまく衝いて、違法ギリギリのところでうまい汁を吸う輩が出てくるが、こういう手合いについては法は世間のご期待にそうことはできない。また、法的安定性を保つには、どうしても先例尊重が無難となり、新しい情況に対して即応する姿勢にはなりにくく、法的な救済はどうしても後手にまわらざるをえない。法が保守的な役まわりを演ずるのである。これでは人気の出るはずはない。

(c)法律学は体系を重視する理論的な学問の一つである。しかし、実学の一つである以上、実務にも耐えられる能力なしにはその存在価値はない。理論と実務の二マタをかけた学問にはとかく不透明なイメージがつきまとうのだが、法律学もその例にもれず、一方において現実からかなり遊離した高尚な理論をたてるかと思うと、他方で、現実に対応するためには理論の純粋性を多少とも犠牲にしなければな
らない。「法律家は白も黒に、黒も白に言いくるめる技術を持った偉い方だ」と言われる原因の一つはここにある。世間はそのあたりのいやらしさを敏感にカギとって拒絶反応を起こす。かつての社会党の「自衛隊違憲・合法論」も、理論と現実との接合を目指した法理としては近来にない出色の作品であるが、はたして、ある意味では潔癖でさめた国民はそれにすんなりとは乗ってこなかった。「石橋書記長の努力は買うが、理屈の方はどうも」という感じが新聞のコラムや投書欄によくにじみ出ている。

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