(第7回)これはなんらわれわれには関係せず、キケローに関係する
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。
(不定期更新)
Nihil hoc ad nōs, ad Cicerōnem.
前1世紀の法学者アクィーリウス・ガッルスの言葉。
キケローは、多才な人として歴史に名をとどめるほどの人物であるが、この格言めいた言葉のなかで、彼は、弁論家の代表・象徴として位置づけられている。意味はこうである。「われわれ(つまり法学者)は、諮問してきた人に対して事実の性質について説明はしますが(無償で行なうのが原則である)、提示された事実がはたして本当に事実であるかの問題は、われわれの関知することでなく、それは弁論家の御仕事ですよ」。
この命題は、誇り高い法学者が弁論家と称される人種と一線を画すとともに、白を黒とも言いかねない体質の弁論家に対して、せいいっぱいの皮肉を投げつけているものと読めよう。事実、前1世紀の時点においては、法学と弁論術はいわば商売仇同士であって、法学の方に少し分が悪くなる兆しも見えていたのである。そのあたりの事情を少し説明しておこう。
法学者(私人にすぎない。私塾の先生みたいなものである)は、訴訟の表にはいっさい顔を出さないが、弁論家は、報酬を事実上もらって弁護人として立つ。彼は勝たなければならない。自身の政治的立身出世のためにもである。前2~1世紀のローマは変化の激しい時期であり、つぎつぎに法的にもむつかしい問題が続出してきた。例外なく貴族の上流の出身である法学者は、もともと保守的傾向を持っているし、法学それ自体も守旧的であったから、大きく速く動いていく社会の要請に十分対応できなかった。ここに弁論術のツケこむスキがあったわけで、ソフィスト、プラトーン、アリストテレースというそうそうたるギリシアの碩学たちによって実践も踏まえつつ磨きあげられ、前2世紀にヘレニズム文化とともにローマに流入してきた弁論術は、ローマの裁判(とりわけ陪審システムをとる刑事裁判)に無視できない力を発揮しはじめた。法学は、公正・中立な立場を貫かざるをえず、身分の低い輩たちも多く含む弁論家の活躍ぶりをこころよく思わなかったにちがいない。
さて、法律を学んでいく上で、よく理解しておく必要のあるテーマとして、法律問題と事実問題がある。この点を説明する好例があるのでお目にかけよう。
ロッキード裁判丸紅ルートでの田中角栄被告側は、事実の問題として5億円の受領を全面的に否認するとともに、法律的な問題としては、かりにそういう事実があったとしても、総理大臣には職務権限がない以上受託収賄は成立しえない、と弁護の論陣を張った。結果は、双方のポイントについて完敗であった。このような作戦はいわば弁護の常套手段であって、最強の守りをしただけである。田中陣営は、控訴審では、もっぱら法律問題で争うことになろうと臆測されているのもこのさい記憶されてよいことであろう。
そのようなわけで、現在の日本の裁判では、職業的裁判官が当事者側の申立てあるいは自身のイニシャティブによって事実を調査し、それに法律を適用していくという仕事をタテマエ上やっていくのだが、こういう大陸法型裁判においては、事実問題と法律問題とを分けて考えていく必要はあまりない。1人の裁判官の頭のなかで両者が相互にからみあっているからである。しかし、英米において現在もかなりのウェイトを占めている陪審裁判においては、事情が異なる。陪審の本質は、事実問題の判断を素人である国民の代表に委ねる点にある。したがって、ここでは、ローマの場合と同様に、事実問題について自身の側に有利な心証をつくりだそうと、弁護人が必死の努力をする。あまり知られていないことだが、日本にも陪審裁判がかつて制度としておかれ、今はその制度は停止しているだけなので(沖縄においてはごく最近まで存在した)、未来の問題としては陪審は十分に可能である。筆者もその実現を願う1人であり、このような法命題に再び生命のふきこまれる日を楽しみしている。
つぎに、ローマで書かれ、1世紀までヨーロッパで尊重された1冊の弁論術教科書のなかから、弁論家のロジックを紹介してみよう。ここにはあらゆるケースに応じられる論法がギッシリとつめこまれているが、そのうち刑事事件の事実問題に関係するものとして、最強の論陣を組みたててみると以下のようになってくるはずである。「被告人は訴追者(これはローマの場合、検察官ではなく一私人であり、悪く言うと「訴追屋」である)が申し立てているような悪事について全く動機も持たないし、彼の日ごろの素行から判断してそのようなことを行なうとはとうてい考えられない。そのたぐいの悪事は、彼でなくても他の誰でも実行できたことであり、場所も時間帯も時間の余裕も機会も彼の実行に決して適合したものでなく(「彼ならもっとうまくやったはずだ」という意味)、アリバイがちゃんとあり、当時の彼の挙動から見ても、悪事をやったとはおよそ推測されない。さらに――防御から攻撃に転じて――、訴追者側から提出された証人も、拷問による奴隷の自白も、証拠も、噂もすべて全く信用に値しない」となる。
弁護人は、事実問題しか扱わないというわけにはいかない。事実が争いようもなくはっきりしていたり、争ってもよい結果が得られないときには、彼は、法律問題にも足を踏みいれることになる。ローマの法学者はもっぱら私法に全精力を傾注したから、刑事事件をめぐる理論的問題はいわば未踏の分野であった。この分野で彼らの援用するロジックの一部を摘出してみよう。「そのような行為はたしかに被告人の行なったものである。しかし、それは、訴追者が援用している法律の文言にはそもそも含まれていないし、その法律を起草した者の意図したことにも属さない。また、そのことは別としても、その法律は矛盾だらけであるだけではなく、当該条文の意味もあいまいで、問題となっている行為を厳密に分析してみると、それは犯罪の構成要件に該当しないし、そもそも訴えられた法廷も、管轄ちがいで間違っている。訴追者は、やり方に困りはてて、類推を通じて適用される法律をデッチあげたが、そのような類推は誤っている」という論法があるかと思うと、「その行為はたしかに被告人に帰せられるが、それは知らずにやったのだ」とか、「彼の行動は、他人の悪事によって強制されたのだからやむをえない」とか、「彼は2つの悪事のうち1つを選ばされる羽目に陥り、まだ害の少ない方を選んだのだ」とか、状況に応じていろいろと弁解につとめるわけである。ギリシアのアテネやローマでは、裁判が日常茶飯事であったから、人間の考えつきそうな理屈はたいてい使われたのである。いずれの場合においても、聴き手である、法に素人の陪審人は現在のように12名でなく、はるかに多数であったので、弁論家の腕の見せどころとして、彼等は大いにハッスルしたに違いない。
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。