『学校を変える いじめの科学』(著:和久田学)
序章 いじめ対策になぜ「科学」が必要なのか――経験則の罠
いじめの経験
こう質問されると、多くの人が「はい」と答えるだろう。もちろん首をひねる人もいるだろう。だが、そこで「いじめの経験」とは、被害と加害だけを意味していないことを伝えると、ほとんどの人が大きく頷くことになる。
いじめの被害者と加害者以外の存在──これを「傍観者」という。
森田(森田・清水, 1986)は、いじめの4層構造を提唱している。これは、「被害者」「加害者」に加えて、「観衆」と「傍観者」が入る図式である。このうち「観衆」とは、いじめをはやし立てたり面白がって見たりしている人たちであり、「傍観者」とは見て見ぬふりをしている人たちを指す。欧米の研究では、さらに「仲裁者」(いじめを止めようとする者)を入れて、5層構造としているものもあるが、とりあえず本書ではシンプルに、いじめを見ている者すべてを傍観者として話を進めたい。
さて、多くの大人は、いじめの経験者である。
筆者は、さまざまなところで「いじめ」に関する講演を行ってきた。その冒頭では、いつもいじめ経験の有無を聞いてきたが、そこで「いいえ」と否定する人はまずいない。
国立教育政策研究所 生徒指導・進路指導研究センターのいじめ追跡調査(2016)によると、典型的ないじめである「仲間外れ、無視、悪口」の被害および加害の経験率は、小学校4~6年の3年間でそれぞれ9割程度であるとの結果が出ている。まさに1996年に文部大臣(当時)が出した緊急アピールのとおり、「深刻ないじめは、どの学校にも、どのクラスにも、どの子どもにも起こりうる」のである。
では、ここでみなさんにもみずからのいじめ体験を思い出していただきたい。
被害者、加害者、傍観者、どの立場でもいい。小学校、中学校、高等学校、大学、もしかしたら大人になってから、職場や地域でのいじめに遭遇した人もいるかもしれない。「ママ友いじめ」などという言葉もあると聞く。ネットいじめの経験者だっているはずだ。
どんな場面が思い浮かぶだろうか?
実際に、それぞれの体験を語る時間を設けると、驚くほど悲惨な事例が挙がってくる。
被害者だった人もいる。何が理由かいまだにわからない。毎日のように背後から叩かれた。歩いているときに足を出されて転ばされた。持ち物を隠された、だから同窓会の類には絶対に顔を出したくない、等々。
傍観者だったことを悔いる人がいる。友だちがいじめられていたのを見ていた。かわいそうだと思った。何もできなかった自分が不甲斐ない。いじめられていた友だちに謝りたい。
加害者であったことを懺悔する人もいる。いじめているつもりはなかったが、今思えば、かわいそうだった。集団でいじめていた。いじめに加わらないと、自分がいじめの対象になりそうだった──。
胸が熱くなり、涙をこぼす人もいる。
そして、その後に感想を聞くと次のようなことを言う人が多い。
「あんなにつらい思いをしたのに、こういう機会をもらうまで忘れていた。今まで、いじめのことを軽く考えていたかもしれない」
人間の記憶は複雑で難しい。嫌な記憶のなかには、その深刻さゆえに封印されるものもある。別の記憶に置き換わってしまうこともある。
だから、実際に子どもからいじめの相談を受けたとき、自分の悲惨な経験を思い出せるかというと、そうではない。なかば自動的に「いじめなんか、誰もが経験することだ。大したことない。我慢しなさい」などと言ってしまうかもしれない。本当は、子どもだったときに悲惨な経験をしていたにもかかわらず、である。
世間一般に親というものは、子どもに対して、「お母さん(お父さん)が子どもだった頃は……」などと言う傾向にあるが、その言葉にどれだけの信憑性があるというのだろう。同様に教員も「先生が中学生だった頃には……」などと言うが、そこにどれだけの真実が含まれているのだろう。
もちろん、いくらかの事実は含まれているだろう。だが証拠はないし、確認することもできない。
そういう大人自身も、事実であると思っていないことがある。嘘をつくつもりはないだろうが、適当に脚色することはあるだろうし、子どもたちもたぶん、多少はわかっている。自分の親が、子ども時代にそんな優秀であったはずはない、時代が違うのだから一方的に比べられても迷惑な話だ、と。
いや、そうした記憶の問題ではなくて、いじめの被害にあったにもかかわらず、それほど傷つかなかった人もいる。
いじめと一口に言っても、種類も深刻さもいろいろだ。もちろん、いかなるいじめも放置すべきではないが、たまたま被害にあった子どもが、精神的にタフだったり、友だちに恵まれていたりすると、「いじめられたけれど、大したことはなかった」という経験になる。本人の能力だけでなく、学校や家庭の環境の影響も大きいし、偶然が作用することもある。
どうやら、私たちの経験は、時間がたてばたつほど、怪しさを増す傾向にあるらしい。
「どうすればよいかわからない」大人の対応の問題
ところが、子どもからいじめに関する相談をもちかけられたとき、私たち大人はみずからの経験に照らし合わせて判断する。
このことについての明確な調査があるわけではないが、わが国に限らずさまざまな専門家がその危険性に触れている。
具体的には、いじめの被害にあった子どもがそのつらさを大人に相談したとき、「よくあることだよ」「我慢すればいい」「勉強で見返してやれ」「自分の力で何とかしなさい」などの言葉をかける対応だが、これらの言葉には、その人自身が子どもだったとき、「いじめをよく見聞きした(それだけでなく被害者だったり加害者だったりした)」「我慢するしか方法はなかった」「勉強で見返すようにと誰かに言われた」「自分の力で何とかするしかなかった」といった経験が背後にあり、しかもそれらの経験は、自分にとって都合のよいところのみを切りとっている可能性がある。
では、こうした対応は正しいのか、ということだが、結論をいうと、完全に間違っている。
……
続きは本書をご覧ください。
目次
序章 いじめ対策になぜ「科学」が必要なのか──経験則の罠
【第1部 いじめを科学で捉える】
1章 いじめをキーワードで定義する──「いじめ」と「いじり」を切り離す
2章 加害者──シンキング・エラーをどう正すか
3章 被害者──沈黙・孤立を防ぐために
4章 傍観者──いじめ防止の鍵を握る存在
5章 ネットいじめ──現状と対策
6章 いじめを縦軸と横軸で整理する
【第2部 いじめを予防する】
7章 いじめ対策の前提──教師が傍観者をやめ、加害モデルにならないこと
8章 包括的取り組みの必要性
9章 包括的取り組みの全体デザイン
10章 いじめ予防授業を始める前に
11章 いじめ予防授業の具体的内容
12章 保護者支援のデザインと方法──何を知らせ、どう支援するのか
13章 学校風土を改善する
【第3部 起こってしまったいじめに対応する】
14章 いじめが生じた後の具体的介入
15章 わが子が加害者・被害者になったとき、保護者は何をすべきか
16章 二次障害としてのいじめ──いじめ重大事態に含まれる気になるケース
終章 教育に科学を
書誌情報
- 和久田 学 著
- 紙の書籍
- 予価:税込 2,160円(本体価格 2,000円)
- 発刊年月:2019年4月
- ISBN:978-4-535-56377-3
- 判型:A5判
- ページ数:248ページ
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