チャゴス諸島分離の法的帰結(玉田大)

判例時評(法律時報)| 2019.06.28
一つの判決が、時に大きな社会的関心を呼び、議論の転機をもたらすことがあります。この「判例時評」はそうした注目すべき重要判決を取り上げ、専門家が解説をする「法律時評」の姉妹企画です。
月刊「法律時報」より掲載。

(不定期更新)

◆この記事は「法律時報」91巻8号(2019年7月号)に掲載されているものです。◆

ICJ勧告的意見(2019・2・25) PDF(英語)

1 植民地独立プロセスの適法性を問う

長らく英国の植民地であったモーリシャスは、その従属地であるチャゴス諸島を分離した形で1968年に独立(=脱植民地化)した。独立に際してチャゴス諸島がわざわざ切り離されたのは、モーリシャスの独立後も英国がチャゴス諸島の植民地支配を継続し、これを米国の軍事利用(ディエゴ・ガルシア米軍基地)に供するためであった。基地建設に伴い、全島民は強制移住させられ、現在も島への帰還が禁止されている。このように、インド洋に浮かぶ小島は、突然、国際政治の荒波に飲み込まれてしまった。1970年代以降、様々な手続が試されたものの(英国国内訴訟、自由権規約委員会、欧州人権裁判所、国連海洋法条約附属書VII仲裁)、諸島返還も島民帰還も実現していない。また、英国を相手に国際司法裁判所(ICJ)に提訴するという方策は、英国のICJ選択条項受諾宣言に付された留保(コモンウェルス留保)によって排除されている。そこで、最後の手段として考案されたのが、アフリカ連合の支援をもとに国連総会を動かし、国連総会からICJに勧告的意見を要請する、という方策であった。本件はこうした特殊な背景を有するため、大国の横暴に翻弄された小国を助ける、という判官贔屓の構図が最初から出来上がっていたと言えよう。なお、本件のタイトルにあるように、チャゴス諸島の分離は(モーリシャスが英国の植民地であった)1965年に行われている。英国側は、当該分離は「合意」(1965年)に基づくものであると主張しているが、モーリシャス側は、脅迫的な交渉で分離を受入れざるを得なかったため、「合意」は無効と主張している。

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