(第12回)法律は時に眠ることはあるが、決して死ぬことはない
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。
(不定期更新)
Dormiunt aliquandō lēgēs, numquam moriuntur.
出典不明。
つまり、法律は、かりに適用されない状態におかれても、決してその効力を自動的に失なうものではないという趣旨である。「法律を破るには法律が必要である( Gesetz muß Gesetz brechen )」、「法律は法律によって廃止される( Lēx lēge tollitur )」というのも同趣旨である。法の主である国家は、「法は権利の上に眠る者は保護しない」とか称して、たとえば、金を貸しておきながら自身の権利を十分行使もせずにほうっておく者から消滅時効という制度によってその金を返還請求する地位を奪いとってしまう(うまくたちまわればの話だが、飲み屋のツケならわずか1年で支払わなくてもよい)にもかかわらず、自分の方はと言えば、「今ちょっと寝ているだけだ。眼を覚したら一声ほえてきびしく取締ってやるぞ」と道理にあわないことを言うのだから、手前勝手なものである。われわれとしては、法律が適用されていない状況があっても甘く見てはいけないわけで、「法」さまがおやすみになっているのか、起きられる気配はないのか、すでにご他界なさっているのか、を十分探ってみる必要があるというものである。日本人が法に対してもう一つ信頼をおいていないのは、このたぐいの法が意外と身のまわりに多くあることもかなり影響していよう。たとえば、スピード違反、駐車違反を取り締る際に発動される交通法規も、実は時々寝ているのではないかとさえ思われる(この点についての詳しい議論は、拙著『法のタテマエとホンネ』で展開しておいた。参照していただきたい。以下の二例についても同様である)。やや特殊な例であるが二つだけあげておこう。
(1) 日本が堕胎天国であるのは周知の事実に属する。カトリックの世界ではもちろんのこと、プロテスタントの世界でも堕胎は人倫に反する大罪であるが、日本では、伝統のせいか、この行為に対する罪の意識はかなり薄く、良心の咎めも少ない。刑法第212条以下に堕胎を罰するレッキとした法規定があるにもかかわらず、最近数年間の平均をとると、堕胎罪で起訴されたのは年わずか2.5件しかない。有無を言わさずおしとおる強行法規のうちでも最右翼に位置する刑法の規定が、フテ寝をきめこんでいるのである。今のところ、それを起こそうという動きは、それほど強くない。しかも、改正刑法草案は現行法を踏襲する姿勢を示しているので、お寝みの時間は、ますます長くなるばかりである。識者は、この規定が、寝ていても、死んでミイラと化していても、刑法典にちゃんと規定があるからこそ、これが性道徳の退廃に対する防波堤になっており、それなりに妙味があるのだと説明するが、法を一方において馬鹿にしながらも、他方で昔からの体質上それをおそれている日本人には、こういう中途半端なやり方でも十分に意味があるのかもしれない。堕胎罪で別件逮捕という話はあまり聞かないけれども、このように、つねづね当局が起訴しなかったり、目こぼしをしているからと言ってタカをくくっていると、別の本件の捜査の手段として大いに活用される事例もあって、眠っている法律や条文にも注意を払っておかなければならない。ちなみに、アメリカや西ドイツでは、きびしい議論と選択を経由して、堕胎に対して、方向は全く逆であるが、それぞれ良心的に対処する姿勢を示した。欧米人の論理からすれば、実効性を欠き、眠りこけている法律などさっさと葬ってしまえ、ということになるのだろうか。日本はドイツ・フランスなどの制定法主義による大陸法系の国家系列に属しているけれども、立法のテンポが極端にのろいことにおいて、これらの国々の場合とは非常に違っている。全くの私見であって、証明不能な感触なのだが、日本は、判例法主義の方が体質にあっている国なのではないかとさえ思われる。
(2) つぎに、眠っていた法律が突然眼を覚ました例をお目にかける。この法律――食糧管理法――は戦前産の由緒ある法律だが、1981年に改正され、生まれかわった。ところが、この法律は、眼を覚ましたとたん、ほえて人を驚かせたのである。商社「丸紅」は、1972年産のモチ米3000トン以上をヤミルートで買い占めたために、突如として当局の手入れを招き、1978年にその責任者は執行猶予つきの懲役と罰金刑を科された。そのヤミ米というのは、「自由米」のことで、政府管理米と自主流通米以外の正規ルートを外れたコメである。量の多かったことは異例であるにしても、当時どの家庭でもヤミ米は堂々と食べていたわけで、当局の手口は陰険とさえ評された。丸紅側は、食管法が長らく死法化していたことを根拠にして、買入れには可罰的違法性がないと抗弁したが、買占めに狂奔し、物価値上げの元凶の一つとされた商社におキュウをすえようとする当局の気迫にはかなわなかったものと思われる。食管法改正後も、また違ったかたちで、違法な状態に目をつぶることが行なわれているらしい。ザル法の典型とされた食管法の面目躍如というところか。
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。