(第13回)武器の間では法律は沈黙する(兵馬倥偬法寂黙たり)/暴力に対して法は効を奏しない/暴力は法律の敵である

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2019.08.19
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。

(不定期更新)

Inter arma silent lēgēs / Contrā vimonōn valet, jus / Vīslēgibus est inimīca.

いずれも出典不明。兵馬倥偬…は漢語調の翻訳だが、なかなか味がある。

この格言は、法があくまでも平時をとりしきる技術であって、実力行使(暴力)の前にはか弱い存在であることを示すものである(このような読み方以外にも「国内法の問題として、戦争に突入すると、法律によって保障されていた国民の基本的人権やさまざまの利益がタナあげされてしまう」という趣旨の読み方もあろう)。格言「非理法権天」((第3回)参照)にならうなら「法は戦に勝たず」となろうか。しかし、現在においては、人間の叡知により、多くは条約の形で、戦時国際法がある程度は働いており、昔のように戦争だから人権も全く無視して何をやってもよいということは、文明世界にかんするかぎり、ほとんどなくなったと思われる。第二次大戦後に各地で行なわれた戦争裁判では、日本軍の捕虜虐待や残虐行為が問題とされ、多くの人が戦犯として処刑されたのであるが、これは、「負けて捕えられるなら死あるのみ」とする日本軍人の論理からして「戦争中に法うんぬんを言いたてるのは国辱ものだ」ということになり、国際条約で定められた戦争のルールに十分には従わなかったためでもある(この格言はラテン語で書かれているから、欧米でも似たりよったりのことがあったのかもしれない)。余談になるが、戦後、ドイツの捕虜収容所から脱走するストーリーを映画化したものは10以上もあり、活劇映画マニアの筆者はそのすべてを見たつもりであるが、ここには「捕虜には脱走する自然法上の(?)権利があるのだ」という法がちゃんと生きていて、脱走に失敗して捕えられても、虐殺されたり、理由もなく射殺されたりせず、一応耐えられる罰を受けるだけにとどまるようになっていた。日本軍の捕虜収容所ではどのようになっていたのだろうか?

しかし、アメリカの大統領は、第二次大戦末期に原爆を投下する決定を2回にわたって行なった。この武器は、無防備都市への非戦闘員までもまきこむ無差別爆撃に用いられた(原爆の持つ未来への禍の種をまいたことは別としてもである)。彼等には、戦争の早期解決を図るためとか、犠牲を最小限にくいとめるためとか、それ相当の理由があっただろうが、その所業が、国際法(ヘーグ陸戦規則など)に反する違反行為の疑いを持たれるだけではなく、禍の及ぶ時間の長さを考えると、人類史上における最大級の犯罪と評されてもしかたがない(現に、1963年の東京地裁判決は、原爆投下が国際法に反すると判断している)。戦争はつねに狂気のわざであり、狂人に対してはそもそも法など無力なのかもしれない。

ここに、少し古いが、この格言の一つの趣旨に適合する有名な事件がある。明治24年5月11日、日本を訪れていたロシア皇太子に津田という護衛の巡査が帯剣で傷を負わせる事件が大津で発生した。世に言う大津事件である。当時、刑法第116条において天皇、三后、皇太子に対する傷害および傷害未遂には、死刑という極刑が設けられていたが、外国人皇族への傷害については、特別に法規に定められておらず、一般の殺人未遂と同じで無期徒刑どまりであった。時の政府は、この事件の処理に対して、当時日本と緊張関係に立っていたロシアが不満を持って武力に訴えるのではないかとおそれ、強硬派の内相西郷氏は、死刑に処するよう司法に対して圧力をかけた。時の大審院院長児島氏は、刑法に言う「皇太子」には外国の皇太子は含まれないという立場に立って、謀殺未遂に対する法規定どおりの処罰(無期徒刑)を主張してゆずらなかった。いわゆる司法権の独立がかちとられたとされる事件である。彼はこのことによって「護法の神」とまで敬われた(もっとも、事件担当裁判官を激励した児島氏の行動の是非に対しては賛否両論があり、今も彼への評価が分かれている)。その際、児島氏は、「このような事件処理のしかたではひょっとして戦争になるかもしれないが、裁判官の眼中には法律しかない。もし戦争に突入したら、われわれ裁判官は一部隊を編成して、軍人の命令に従う。もちろん、そのときは、法律など担ぎだして異論を唱えたりはしない」というようなことを――おそらく皮肉としてではなく――述べたと伝えられる。

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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。