(第2回)科学者と戦争/明治大学・登戸研究所資料館
(不定期更新)
今回は明治大学生田キャンパスにある「明治大学平和教育登戸研究所資料館」をご紹介します。
明治大学生田キャンパスは、小田急線生田駅から歩いてすぐの丘の上ですが、生田駅に一番近い門(西北門)から入ると生田キャンパス一有名な長い上り坂、通称生田坂があります。現在は、地域産学連携研究センターのエスカレーターを使えば、らくらく快適にキャンパス内へ入ることができます。
明治大学平和教育登戸研究所資料館は、「戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく(設立趣旨)」ため、2010(平成22)年3月に開館しました。戦前存在した「登戸研究所」の研究施設・開発兵器などを保存・展示しています。
7月某日、われわれは登戸研究所資料館が定期的に行っている見学会に参加しました。
1.登戸研究所の歴史
明治大学生田キャンパスのある場所には、戦前、「第九陸軍技術研究所」がありました。この研究所は、秘密戦兵器の開発・研究を行っていたため、当時から「登戸研究所」という秘匿名で呼ばれていました。
登戸研究所の敷地面積は約11万坪。明治大学生田キャンパスの敷地面積は約5万坪なので、研究所は生田キャンパスのおよそ倍の敷地面積があったということになります。
登戸研究所は、1937(昭和12)年11月、「陸軍科学研究所登戸実験場」として開設されました。当初は、電波兵器(く号兵器)、レーダー兵器(ち号兵器)、熱線兵器(ね号兵器)などを開発していました(研究所の拡充後は第一科が中心となって研究・開発)。1939(昭和14)年に研究所は大幅に拡充され、「陸軍科学研究所登戸出張所」と名称変更されました。あらたに、毒薬、細菌兵器、スパイ用品などを開発する第二科、偽札や偽パスポートを製造する第三科が設置されました。
1942(昭和17)年には、「第九陸軍技術研究所」となり、第四科として工場が設置されました。第一科ではこのころから風船爆弾(ふ号兵器)の開発も行っています。
「第九陸軍技術研究所」という名称でしたが、登戸研究所で働いていたのは軍人だけではなく、科学者たちもいました。1945(昭和20)年には862名もの人々が登戸研究所で働いていました。地元では「実験場」と呼ばれ、地元採用の人や女性も多く働いていたようです。成績がよくないと働くことができなかったため、登戸研究所で働けることは地元の人にとって誇りだったそうです。
1945(昭和20)年8月15日以降、登戸研究所の公文書(「ふ号及び登戸関係」)などはすべて焼却、証拠隠滅されました。GHQにより登戸研究所は接収され、関係者たちは尋問を受けましたが、全員免責、誰ひとりとして戦犯になった人はいなかったそうです。
2.明治大学生田キャンパス内に残る史跡
消火栓(1)
これは登戸研究所時代からある本物だそうで、中心には陸軍の五芒星が付されています。
現在図書館がある場所の隣には、戦前、登戸研究所の本館(本部)があり、この消火栓は本館(本部)を守るためにここに置かれていました。水は浄水場1)から引き、敷地内南側にあった給水塔に溜め、消火栓や製紙工場などで使用していたようです。
ヒマラヤスギ
図書館の前には、一列に植えられた8本の立派なヒマラヤスギがあります。
このヒマラヤスギ、実は登戸研究所時代に植えられたものではなく、日本高等拓植学校がこの場所にあったころに植えられたそうです。ブラジル移民を育てるための学校である日本高等拓植学校では、コーヒーの麻袋の原料であるジュートをブラジルで栽培する技術などを教えていました。
しかしながら国策移民事業はブラジルから満州に移り、日本高等拓植学校は設立から5年でほとんど不要となってしまいます。その後陸軍がこの場所を買い取り、陸軍の研究所、登戸研究所を設立したのでした。
ヒマラヤスギのあるこの場所は、登戸研究所時代は本館があり、三笠宮崇仁少佐(昭和天皇の弟)が研究所の視察に訪れた際、集合写真を撮影した場所でもあります。
象徴的なヒマラヤスギは、登戸研究所の航空写真でも確認することができます。
動物慰霊碑
明治大学生田キャンパスの正門裏にあるのが動物慰霊碑です。この慰霊碑は1943(昭和18)年に建立されました。約2.7メートルの高さがあり、実験動物を慰霊するものとしては最大級のものだそうです。正面には「動物慰霊碑」の文字、裏側には「昭和十八年三月陸軍登戸研究所建之」の文字が彫られています。正面の文字は登戸研究所初代所長篠田鐐陸軍中将のものとのことです。
登戸研究所では、マウス、ウサギ、ブタ、サルといった、多くの実験動物を飼育していました。とくに多かったのはブタで、おそらくブタの肌と臓器は人間に似ているため、人間への影響を知るのに都合がよかったのでしょう。
登戸研究所は暗殺用の毒物兵器(青酸ニトリル)を開発したことで東条英機首相兼陸相から章を授与され、その賞金でこの碑を建てたそうです。
偽札製紙工場跡地
現在テニスコート・理工学部の校舎がある場所は、明治大学生田キャンパスのなかでもっとも低い場所(とはいっても丘の上ですが)。登戸研究所時代、この場所には偽札の製紙工場がありました。
紙幣をつくる技術は、登戸研究所に専門家がいなかったため、製紙会社に協力を要請し、身につけたそうです。
偽札を運んだ道
現在駐輪場になっているこの道は、登戸研究所時代、所内で製造した偽札をトラックで登戸駅まで運ぶための道だったそうです。敷地南側にあった印刷工場は板べいで囲まれ、外から見えないようになっていました。板べいの中で偽札を積んだトラックは、印刷工場から出て、この道を抜けて登戸駅に向かいます。偽札は登戸駅から鉄道で九州まで運ばれ、さらに船で上海まで運ばれ使用されました。
弥心(やごころ)神社(現:生田神社)
この神社は、動物慰霊碑と同じ1943(昭和18)年に建立されています。ただ、祭られているのは動物ではなく、知恵の神だそう。陸軍の施設といえども、ここが研究所であり、働いていたのが軍人ではなく研究者たちであったことを物語っています。
1988(昭和63)年に、登戸研究所に勤めていた人々が有志で建てた碑も神社内にあります。
防火水槽
コンクリート製の水槽が地面に埋まっています。
消火栓(2)
学生会館・食堂のあたりには、火災を恐れて消火栓が設置されていました。図書館前にある消火栓と同じものですが、一部破損してしまっています。
倉庫跡(通称:弾薬庫)
「弾薬庫」と呼ばれていますが、実際は薬品庫であったのではないかと考えられています。倉庫内は見学することができますが、われわれが見学に訪れた梅雨の時期は、ムカデが多い時期だったため、おススメされませんでした(見学したい方はムカデの少ない季節をおススメします)。
第二科研究室(現:明治大学平和教育登戸研究所資料館)
現在資料館になっているこの建物は、登戸研究所の建物のなかで数少ないコンクリート製で、もともとは第二科が穀物を枯らす細菌の研究に使用していたそうです。
3.登戸研究所資料館
第一展示室
第一展示室では、登戸研究所の歴史、目的、組織の概要など、研究所の全体像を学ぶことができます。登戸研究所の航空写真も展示されています。現在の生田キャンパスの航空写真と比べると、ヒマラヤスギや道路など、現在も形をとどめているものを発見することができます。
ちなみに、建物の中はできるだけ当時の設備が見られるように、洗い場などの設備をできるだけそのまま残し、展示もフレームを組んで行っています。照明や部屋割り、内装もできるだけ戦時中のものに近づけたそうです。
第二展示室
第二展示室では、第一科で開発が行われた風船爆弾について解説する展示をしています。展示室でいちばんに目に入るのは、風船爆弾の模型です。爆弾に見えないこのような兵器が、どのくらいの被害をアメリカに与えたのか、なぜ日本軍はこだわって風船爆弾をつくらせ続けたのか、ぜひ確かめてみてください。展示室では、風船爆弾の材料であったこんにゃくの粉(こんにゃく糊)や手すき和紙に触れることもできます。
第三展示室
第三展示室では、第二科の研究開発について紹介しています。第二科は主に生物兵器・毒物・スパイ用の物品を研究開発していました。まさに、秘密戦の要素である「防諜・諜報・謀略・宣伝」にとって重要な研究です。一見して兵器とは思えない物品がいろいろ展示されていました。
とくに第二科で開発された暗殺用の毒物兵器(青酸ニトリル)は成果を上げ、上述の通り、表彰されています。かつてここに勤めていた科学者は,実際に毒物の人体実験を行ったことについて,一つの趣味のようになったと証言していたそうです。
第四展示室
第四展示室では、第三科の活動、偽札や偽パスポートの製造について紹介しています。
日中戦争が長期化したため、日本軍は中華民国国民政府(蒋介石政権)下の中国で発行された統一通貨(法幣)の偽物を中国でばらまき、経済的なダメージを与えることを考えました。登戸研究所第三科は、試行錯誤の末、本物そっくりの偽札をつくることに成功したのです。なお、この開発は「秘密中の秘密」であったため、第三科の建物の周囲は板塀で囲まれ、他の研究科とは遮断されていました。
暗室
クランク式の通路を通って入ると、暗室があります。二重窓や流し台など、当時の姿を残しています。クランク式の入り口は、実験器具を両手に持っていても中に入りやすいという利点がありました。
実際に電気を消してもらい、暗室体験をしました。クランク式の通路にはドアが一切ないにもかかわらず、完全な暗闇になりました。
第五展示室
第五展示室では、戦局の悪化により行われた登戸研究所の疎開と、敗戦後の登戸研究所が紹介されています。
1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦での敗戦以来敗戦が続いたため、日本本土での決戦を覚悟した日本軍は、重要機関を長野県へ疎開させる計画を進めました。登戸研究所は、1945(昭和20)年3月~4月に長野県に疎開しましたが、研究開発を本格的にスタートする前に終戦を迎えました。
ここでは、「石井式濾水機濾過筒」の実物に触れることができます。これは今後の細菌戦を想定し、衛生的な水を確保するために疎開先の長野県に運ばれたといわれています。そのほかにも「放火用謀略兵器」という樹脂の棒(着火剤でできている)を見ることもできます。
戦後、登戸研究所の研究者たちはGHQにより免責され、一部にはアメリカ軍に協力した方もいました。
見学を終えて
明治大学生田キャンパス内の区画は、登戸研究所時代から変わっていないところがいくつかあります。そのため、キャンパス内にある史跡を散策するだけでも、まるでタイムスリップしたかのように、登戸研究所がここにあったことを感じることができます。私は、キャンパスに到着して集合場所まで向かう間、明治大学のホームページで見た史跡の実物を見られたことに感動していました。しかし、見学が進んでいくにつれて、重くつらい気分になっていきました。科学者たちが頭脳と好奇心を戦争のために使ってしまったということ、そして彼らの研究が今いる場所で行われたのだということに、ショックを受けました。それは、区画が変わっていないところがあるために、写真で見た登戸研究所を現実に投影することができるからでしょう。
また、秘密戦の研究は歴史的な記録に残っていることがほとんどありませんが、この資料館ではそれらの存在を確かめることができます。登戸研究所の元研究員の方々が研究所から持ち帰っていたために、終戦直後焼却処分されずに残ったものがたくさん展示されています。展示されている物品や実験器具から、日本が先の戦争でいったい何をしたのか、いかに非人道的な研究を行っていたのかを感じることができます。戦争を加害者の視点で見ることができる貴重な資料館です。
今回われわれは、登戸研究所資料館主催の見学会に参加させていただいたため、資料館館長で明治大学文学部教授の山田朗先生の解説を聴き、質問もできたので、より充実した見学をすることができました。この場を借りて御礼申し上げます。見学会は定期的に行われているようですので、ご興味のある方はぜひ参加してみてください。
(文責:編集部)
アクセス
- 〒214-8571 神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1
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- 小田急線「向ヶ丘遊園駅」から来館される場合:北口から小田急バス「明大正門前」行きに乗車し、終点で下車。
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- 開館時間:10:00-16:00(休館日:日曜~火曜)
- 入館料:無料
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イベントのお知らせ
横須賀市自然・人文博物館付属馬堀自然教育園開園60周年・明治大学平和教育登戸研究所資料館開館10周年 記念コラボ企画開催
- 「戦争遺跡写真パネル展 近郊の戦跡を訪ねて」
- 会期:2019年7月27日(土)~11月3日(土)
- 会場:明治大学平和教育登戸研究所資料館
- 開館時間:10:00~16:00(休館日:日曜~火曜)
- 入館料:無料
- お問い合わせは明治大学平和教育登戸研究所資料館(044-934-7993)にお願いします。
- 案内チラシはこちら→表・裏
- コラボ展示「横須賀にあった極秘機関――陸軍登戸研究所と横須賀」(主催:明治大学平和教育登戸研究所資料館)
- 会期:2019年7月27日(土)~11月4日(月・祝)
- 会場:横須賀市自然・人文博物館3階ラウンジ(横須賀市自然・人文博物館:〒238-0016横須賀市深田台95)
- 開館時間:9:00~17:00(休館日:月曜(月曜が祝日の場合は翌日))
- 入館料:無料
- お問い合わせは明治大学平和教育登戸研究所資料館(044-934-7993)にお願いします。
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脚注
1. | ↑ | 生田浄水場の水は、多摩川伏流水や地下水を引き上げたものを使用していました。 |