『研究不正と歪んだ科学—STAP細胞事件を超えて』(編著:榎木英介)

一冊散策| 2019.11.26
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

まえがき

本書は 2014 年に発生した STAP 細胞と称される細胞に関する論文不正事件(STAP 細胞事件)を題材に、研究不正を様々な角度から論じた本である。

STAP 細胞事件はワイドショーをはじめ、一般のメディアでも盛んに報道されるなど、だれもが知る事件となった。しかし、報道のされ方がセンセーショナルになりすぎたために、「異常な人物が起こした異常な事件」として認知されてしまった。このため、事件が有名な割には、研究不正とは何かという本質的な議論を行うことなく忘れ去ろうとしている。

しかし、STAP 細胞事件後も研究不正の事例は報告されており、いまだ収まる気配がない。このままではあれほど話題になった事件から、私たちは何も学んでいないということになる。

そこで本書は、だれもが知る STAP 細胞事件をとっかかりに、研究不正とは何か、どうすれば防げるのかを考える題材となるべく企画された。6 人の著者がさまざまな角度から STAP 細胞事件を取り上げている。以下に概要を紹介したい。

 

本書は二部構成をとっている。第 1 部(第 1 章から第 3 章まで)は「STAP 細胞事件とは何だったか」に焦点を当てる。第 2 部(第 4 章から第 6 章まで)は「研究不正と歪んだ科学」として、研究不正が起きる構造的背景について考察する。

第 1 部では、3 名の著者に執筆いただいた。

第 1 章を執筆した粥川準二は STAP 細胞事件を取材した経験があるジャーナリストだ。粥川には取材経験から、STAP 細胞事件の発生から今日までの経緯をまとめてもらった。取材現場に行ったものしか分からない生々しい現場の様子をうかがうことができる。

第 2 章を執筆した中村征樹は研究倫理、科学技術社会論、科学技術史、科学コミュニケーションを専門とする研究者だ。STAP 細胞事件の際には、理化学研究所が設置した「研究不正再発防止のための改革委員会」の委員として、理化学研究所における研究不正の再発防止策の提言に携わった経験を持つ。中村には研究倫理の専門家としての立場から、研究不正の防止について論じてもらった。

第 3 章を執筆した舘野佐保は学術ジャーナル(論文雑誌)の編集者だった経験を持つ。舘野には編集者の視点から、 STAP 細胞の論文にどのような問題点があったのかを考察してもらった。

第 2 部は 3 名の著者が執筆した。

第 4 章を執筆した大隈貞嗣は生命科学の研究者で、大学や企業での研究経験を持つ。大隈には「バイオ産業」「医薬品産業」が抱える問題点について解説していただいた。

第 5 章を執筆した片桐りゅうじはバイオ関連企業の社員で、理化学研究所にテクニカルスタッフとして勤務した経験を持つ。片桐には研究現場の視点から、日本の研究機関が抱える組織的な問題点について論じてもらった。

そして導入の序章と最終章である第 6 章は榎木英介が執筆した。

榎木は本職の医師(病理医)の傍ら在野の立場で日本の研究が抱える問題点を長年ウォッチしてきた。研究不正の問題も関心の対象であり、 STAP 細胞事件の渦中の 2014 年には『嘘と絶望の生命科学』(文春新書)を出版し、研究不正が抱える構造的問題について論じた。榎木は研究不正だけでなく、さまざまな問題行為が研究の健全な発展を阻害している現状について論じ、健全な研究をどう発展させていくべきかについて考察した。

 

以上、 6 人の著者は、 STAP 細胞事件を扱ってはいるものの、それだけにとどまらず、それを超えて、研究不正を起こしにくくし、日本や世界で行われている研究が健全に発展していくためにどうすればよいかを考察している。

科学を含めた様々な分野の研究が健全に行われることは、社会にとって重要なことだ。成果がゆがめられた研究によって損害を受けるのは、研究者だけではない。こうした研究を行うために使われた費用や、こうした研究を参考にして行われた研究を行う費用、そして不正な研究を調査するための費用を負担するのは誰が負担をするのか考えてほしい。そして、ゆがめられた研究が健康被害を及ぼすことさえ考えられる。あらゆる人が当事者になりうるのだ。

だから、本書は研究に関わる者のみならず、あらゆる立場の人に読んでほしい。

それぞれの章は独立しており、どこから読みはじめてもよい。専門書ではないので、関心のある章から気軽にページをめくってほしい。

著者を代表して 榎木英介

おわりに

現在日本は「研究不正大国」として、諸外国から批判を浴びている。繰り返し研究不正を犯す「repeat offender」が目立っており、世界中から懐疑的な目が向けられている。

諸外国を見れば、インドや中国など、急速に研究論文数を伸ばしている国々が数多く研究不正事例を抱えており、決して日本が図抜けているわけではないと思うが、諸外国の厳しい指摘に反論できる組織や担当者がいないのが現状だ。

こうした状況のなか、日本は妙な静けさのなかにいる。

STAP 細胞事件は過去のものとなり、STAP 細胞事件以上の事例や、驚異的な repeat offender が明らかになろうとも、騒がれることがなくなった。事件をスキャンダルとして消費してしまったがゆえに、飽きてしまったのだ。

ここに大きな問題がある。研究不正を「事件」として取り扱う限り、事件が起こったときに対策をすればよいのだろう、ということになってしまう。

研究不正は特異な個人が犯す「犯罪」ではない。個人の倫理観はもとより、研究者教育、所属した研究室の環境、研究機関や行政の対応など、さまざまなものが合わさり発生する。 日本の「研究公正システム」の問題として捉えなければならない。

そして、その「研究公正システム」は、日本だけで完結しない。研究者は諸外国を異動する。そのなかにずさんな「研究公正システム」を持つ国があったら、研究現場は大混乱に陥ってしまう。ずさんな国は批判され、その国出身の研究者は排除されるか、採用に厳しいハードルが課されることになる。

だから EU などは統一した研究公正システムを構築しようとしている。アメリカとの関係が強いカナダや中南米はアメリカの基準に合わせようとしている。

しかし、日本はこうした時代の流れに乗り切れていない。研究者の流動性が乏しいからなのか、ずさんな「研究公正システム」を見直そうとしない。そのため、日本から諸外国に渡った研究者が、日本の基準で研究をしたところ、研究不正として認定されたというケースが後を絶たない。残念ながら、今のままの「研究公正システム」でいたら、日本の研究や日本の研究者は世界から排除されてしまう。これがどれだけ日本の研究にダメージを与えるのか、研究者や政策関係者は理解しているのだろうか。

ここでパラダイムの転換をしなければならない。

研究不正の対応のみを考えていたら、その対策にかかる費用や労力は負担やコストとしてとらえられがちだ。だから各機関はできる限りコストをかけたくない。それではだめなのだ。研究不正を犯したものを罰するという狭い考えを超えて、いかに世界に伍する「研究公正システム」を作り、世界から信頼を得て、研究者に健全で質の高い研究をしてもらうのかという観点で考え直さなければならない。研究公正は日本のイノベーション政策の中心に位置しなければならないのだ。

 

本書が、研究不正にとどまらず、日本の研究のあり方を考えるきっかけになれば幸いだ。

研究公正に関してさらに理解を深めたい方には、以下の本をご紹介したい。本当はもっと紹介したいが、比較的最近出版された本で、手に入れやすいものを選んでみた。

  • 村松秀著『論文捏造』中公新書ラクレ、2006
  • 山崎茂明著『科学者の発表倫理—不正のない論文発表を考える』丸善出版、2013年
  • ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著、牧野賢治訳『背信の科学者たち–論文捏造はなぜ繰り返されるのか?』講談社、2014年
  • 山崎茂明著『科学論文のミスコンダクト』丸善出版、2015年
  • 黒木登志夫著『研究不正—科学者の捏造、改竄、盗用』中公新書、2016年
  • 有田正規著『科学の困ったウラ事情』岩波科学ライブラリー、2016年
  • 田中智之、小出隆規、安井裕之著『科学者の研究倫理–化学・ライフサイエンスを中心に』東京化学同人、2018年
  • 須田桃子著『捏造の科学者–STAP細胞事件』文春文庫、2018年
  • リチャード・ハリス著、寺町朋子訳『生命科学クライシス 新薬開発の危ない現場』白揚社、2019年

また、研究公正に関する最新情報を知りたい場合は、科学技術振興機構(JST)の「研究公正ポータル」をご覧いただきたい。政府系の機関の研究公正に関する情報が集約されている。

なお、白楽ロックビル氏が個人で作成しているウェブサイト「研究者倫理」)は非常に参考になるサイトであるが、さまざまな困難に直面しているとのことで、皆さんが本書を手に取られるころにはなくなっているかもしれない。このことは研究不正について語ることが難しい日本の現状を明らかにしているように思う。

本書が完成するまでに5年もの歳月を費やした。その間気長に待ってくださった日本評論社の佐藤大器氏に感謝申し上げる。また、本書の企画からずっとサポートをしてくれた春日匠氏にも感謝したい。そして、本稿脱稿後、ある会でお会いし、研究公正について議論させていただいた松澤孝明氏にもお礼を申し上げたい。このあとがきは、松澤氏との議論に多くを負っている。もちろん文責は榎木にある。

著者を代表して 榎木英介

目次

  • 序章 STAP細胞事件から本書発売まで
  • 第1部 STAP問題とは何だったか
    • 第1章 事件としてのSTAP細胞問題
      「STAP現象の検証」と「研究論文に関する調査」/「検証実験」の中間報告/小保方氏も丹羽氏も再現できず/STAP細胞はES細胞である可能性/新たに不正2点を認定/オリジナルデータが提出されないので不正ではない!?/小保方氏には「論文投稿料60万円」を請求するのみ/野依理事長の辞任(?)会見/「研究機関運営の倫理」の欠落/コラム 小保方氏の手記『あの日』で書かれなかったこと
    • 第2章 研究不正をどう防止するか—STAP問題から考える
      STAP問題と研究不正の再発防止/研究不正とは何か?/「規定上の研究不正」と「科学としての不正」/研究不正をいかに防止するか/研究不正問題への対応とその現状/文科省新ガイドラインへの対応を超えて
    • 第3章 STAP論文の検証とこれからの学術論文執筆
      STAP論文の文章分析/論文捏造はどうして起きるのか?/改善策の提案/おわりに
  • 第2部 研究不正はなぜ起きるか
    • 第4章 バイオ産業と研究不正
      STAP細胞と利益相反問題/医薬品産業の栄枯盛衰/バイオベンチャー、苦難の道/政治化する医薬品産業/再生医療の希望と影/どうする日本のバイオ
    • 第5章 バイオ研究者のキャリア形成と研究不正
      「理研CDB解体の提言」が意味するもの/研究室の構造問題/止まらない不正と、スタッフの暗黒/「研究室制度」の解体と、新生
    • 第6章 研究不正を超えて—健全な科学の発展のために
      STAP細胞事件が遺したもの/研究不正に環境要因はあるか/不十分な国の方針/相互批判の難しさ/研究不正を起こすな、の限界/グレーゾーンの存在/ずさんな研究の横行/目指すはよい研究

書誌情報など

関連するWebサイトなど