(第18回)法律がなければ犯罪はない/法律がなければ刑罰はない
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。
(不定期更新)
Nūllum crīmen sine lēge. / Nūlla poena sine lēge.
フォイエルバッハの刑法教科書(1811年)ではじめて用いられた標語と伝えられる。
「あらかじめ成文法規(もしこれを「国民の意思を反映して立法機関が制定したもの」と、狭くとるなら、大陸法系の成文法主義のもとでの話となるが、もう少しゆるやかに解しなければならない)によって犯罪と刑罰とが規定されていないかぎりは、ある行為が犯罪とされて罰せられることはない」という意味の罪刑法定主義をうたったおなじみのスローガンである。このネガ版をポジ版にかえると、刑罰法規に明記されていないかぎり、どれほど不都合・不道徳なことをやってもフリー・パスとなる(民事事件でひっかかるなら話はまた別だが)。国家にとって決して都合のよくないこの点は、このスローガンのマイナス面として認識されているけれども、全体として見れば、罪刑法定主義というのは、人それぞれが、自身の行動の指針と、法律の力で結果的に自身が守られているゾーンを認識する手段を国民に与えてくれるので、きわめて重要である。そういうわけで、罪の法定に着目して「刑法は善良な一般市民のマーグナ・カルタ(「保護者」「砦」の意味)」と言われる。ついでに、皮肉にも犯罪者には刑法が頼りにされるから「刑法は犯罪人のマーグナ・カルタ」と形容されることもある。
近代刑法の基本原理と評される罪刑法定主義から派生してくる原則として、ふつう以下の四つがあげられる。(a)刑法の法源としては慣習法を認めないこと、(b)実行のさいに適法であった行為は遡ってのちに処罰されないこと、(c)類推解釈を施すことによって刑法の適用範囲を広げるのを認めないこと(類推許容説は今もあるが)。刑罰規定は制限されるべきである Poenālia sunt restringenda. (d)広範囲にわたる絶対的不定期刑は許されないこと。罪刑法定主義の発想は、かつての罪刑専断主義に対立するものとして、国民の自由を政治権力――国王やその意をうけた裁判官――の専断横暴から守るという近世の自由主義的な思想とともに生まれたが、これは、もとはと言えば、萌芽的なかたちにおいて、1215年のマーグナ・カルタに見え(もっとも、ここでは、特権階級がその封建的自由の保障を王に確認させただけで、市民的自由とは関係がないとして、後代の罪刑法定主義とのつながりを否定する有力な見解もある)、そして、英米法系の国家について見るなら、1776年のフィラデルフィアにおける権利宣言において、また、大陸法系の国家については、1789年のフランス人権宣言においてそれぞれはっきりとしたかたちをとっている。しかし――いずれも今は過去のものとなったが――1926年のソヴィエト・ロシア刑法(1958年改正)は「社会的に危険な行為」というゆるやかな枠組を設け、1935年のナチス刑法(1946年改正)にいたっては、「刑罰法規の基本思想および健全な国民感情にしたがって処罰に値する行為」という一般条項をかかげているし、両法において類推が当然のこととして許されたから、罪刑法定主義が近代の所産と言ってもすべてがそうであったわけではない。現在でも中国の刑法は類推解釈を許容している。その反面、古代ローマでも、紀元前の共和政時代の常設査問所においては、部分的ではあったが、罪と刑の法定も見られるし、このほかにも、他の国々において、ごく一部だけに注目すると、罪刑法定主義が実現されているような感じを与える取扱いもまま見られる。
ところで、大陸法系の国々について主として言えることだが、法律さえ通してしまえば、中味の方は何であっても罪刑法定主義の美名のもとに大手をふってまかりとおれるのか? 罪刑法定主義を形式的原理(法律主義の表明)としてうけとめるなら、そうなる(「法律があれば罪刑がある」)。たしかに、君主や支配者が法律をつくり(あるいはこしらえさせ)、そこに罪と刑のメニューを印刷して盛りこむということは、何が犯罪やら刑罰やらわからない状況よりは数歩進んだこととして歓迎されるべきであるけれども、しかし、その「犯罪」というものが明確性を欠き、中味が何でもほうりこめる魔法の小箱だったら、やはり、権力の座にある者に専制の余地を残すことになるし、他方で、刑罰法規の内容それ自体が適正でなければ――たとえば、処罰の必要・根拠が明白でなかったり、犯罪と刑罰の均衡がとれていなかったりすれば――、実質的に考えると不適切な結果が出てしまう。そのような配慮から、最近では、タテマエとしての罪刑法定主義を尊重するだけでなく、その本質(ホンネ)にも注目して、刑罰法規――とりわけ構成要件――の「明確性」の確保と、実体的適正手続(実体的デュー・プロセス)の要請にこたえていくこと(これは、憲法上、刑事手続の適正さだけではなく、刑事立法の実体的内容の合理性も要求されていると見る立場に由来する)の2つが、あらたな罪刑法定主義の派生的原則として定立されるようになった。これで形式性と実質性の両面において、罪刑法定主義の中味がきっちりとつめこまれたわけである。さらに、最近では、判例も「罪刑法定」のうちの「法」の射程に入れられるようになり、議論の幅が広がりつつある。
現行刑法には罪刑法定主義を明示した規定はないが、憲法第31条、第39条前段、第73条第6号但書にその思想が具体化されている。このスタイルは、どちらかと言うと、手続法的・具体的な側面に重点をおいた英米法流の発想によって罪刑法定主義を表現したもので、大陸法系でのスタイルとは異なっており、日本の刑法が大陸法系の所産であることとマッチしない面もあると考えられてか、改正刑法草案(1974年)では、旧刑法と同じラインのうえに「法律の規定によるのでなければ、いかなる行為も、これを処罰することはできない」(第1条)というように、再び罪刑法定主義を実体法的な扱いをしながら正面から見すえている。
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。