パンデミックと他者への信頼(大屋雄裕)
この状況を受け、Web日本評論では、公法および法哲学の視点からパンデミック(または感染症)を分析した「法学セミナー」2015年4月号掲載の特別企画「パンデミックと法」を再公開します。
◆この記事は「法学セミナー」723号(2015年4月号)に掲載されているものです。◆
証拠隠滅罪の対象は「他人の刑事事件に関する証拠」であり、犯罪者本人の隠滅行為それ自体に、刑事上の責任は問われない(刑法104条)。犯人が自分の利益のために逃亡したり証拠を隠したりするのは自然なこと・人間として普通のことであり規範的な批判を加えることはできない、そうしないことを期待するのは無理だ、という説明が一般的には与えられているようである。だがそのとき、犯罪者がきちんと処罰されることを通じて実現が期待される「公益」は、当然のことではあるがなにがしか犠牲にされていることになるだろう。
では、悪質な感染症が発生し、発覚すれば全家畜の殺処分が命じられるであろう牧場主がその事実を隠すこと、あるいは流行病の自覚症状があるが正直に申告すれば母国たる先進国に帰還することができず、滞在中の発展途上国で低水準の医療しか受けられなくなるであろう旅行者が沈黙を貫いて帰国便に搭乗することは、規範的に批判できないのだろうか。我々はそれが「あり得ること」だという前提で我々自身の行動を決めなくてはならないのだろうか。その不安から我々は、パニックに陥らずにいられるだろうか。
1 公益と自己決定の対立
社会全体の利益と、それを構成する各主体の利益とは、しばしば矛盾・対立する。それは、後者の総和として「公益」を捉え、個々人に還元できない「社会」「共同体」「国家」といったものに固有の利益を認めない個人主義的立場を取ったとしても、なお事実である。たとえばエボラ出血熱に関してリベリアで実際に行なわれたように、当該病変の発生している一定地域を封鎖すること、さらには有効な治療法がないような状況で(かつてペストの大流行に対して行なわれたように)封鎖したまま積極的な医療措置を試みず「見殺し」にすることは許されるだろうかという問題を考えてみよう。