(第20回)誰も思考のかどでは罰をうけない
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。
(不定期更新)
Cōgitātiōnis poenam nēmō patitur.
2~3世紀のローマ法学者ウルピアーヌスの文章で、6世紀には学説法として法文にまでなっている。
こういう趣旨を別の言葉で表現すると「裁判官は内心にかんしては裁かない Dē interīs nōn jūdicat praetor. 」となる。文豪ゲーテが「思ったことがそれだけで犯罪を構成すると言うのなら、私は百種類もの犯罪を無数に犯していることになる」と告白しているのも正直で面白い。
この格言は一見するとごく当然のことを言いあらわしているようであるが、過去から未来にわたってこれがつねに妥当するとはかぎらないことに注意する必要がある。過去について考えれば、思想・信条が直接に処罰の対象となっていたこともある。たとえば、西欧近世に魔女として処刑された者のなかには、たしかに日頃から何やらうさんくさい振舞いをする女性もいたはずだが、そのほかに、むりやりにしょっぴかれ、拷問をうけ、「別にまだ何もやっていないのだけれども自分はたしかに魔女である」と告白した者もかなりいたにちがいない。とかく、人間というのはか弱い存在で、拷問をうければ、たいていの者は、心の中に考えていることはもちろんの、拷問者がほしがっている情報データをネツ造してでも提供して目前の苦しみを逃れようとするから、もし万一、今後思想の過程にまで法が進出を許されたりすることにでもなれば、事態は当然に、なんらかの圧力を加えて心の中にひそんでいるものを摘出する方向に進み、刑法がとりしまる領域はおそるべき拡がりを示すことになろう。現代はもちろんこういう人権無視の取扱いを許さないけれども(もっともナチス刑法は、意思刑法、行為者刑法をかかげて、意思や行為者の人格そのものを問題にしたし、また現代においていわゆる「政治的治安刑法」においてその危険を指摘するむきはある)、未来社会の問題として、夢判断をしたり脳の中味を吟味する装置が開発されると、簡単に心のなかは見すかされて、危険思想の持主が、社会から隔離されたり、抹殺されることも決してありえないことではないから、「外に現われた行為だけしか刑法に考慮させない」という原則はこれからも堅持していく必要がある。罰せられるべきは犯罪行為ではなく、行為者の危険な性格であるというようにも考えていた「新派」刑法学の主張も今なお現実に力をもっているので、時代が変れば、再び問題提起がなされる余地は十分あろう。
つぎに、この格言を手がかりにして、刑法の大枠につきこの項のところで説明しておこう。日本の刑法学の通説的理解によると、犯罪とは「構成要件に該当する、違法かつ有責の行為」である。便宜上、まず最初に「行為」という概念を独立の要素としてとりあげる学説の一つにしたがって説明しよう。これによれば、「行為」のほかに「構成要件該当性」「違法性」「有責性」が各別に吟味される。
(a) 犯罪は「行為」でなければならない。思想・信条や人格そのものは処罰の対象とならず、行為(作為だけでなく不作為も含む)となって外に示されたものだけがとりあげられる。もっとも、この「行為」をどう定義づけ、どう位置づけるかについて、学説上はげしい根本的対立はある。
(b) 「構成要件該当性」というのは、あまり深く考えないかぎりは、比較的わかりやすい要素で、刑法などの規定している一定の類型に、罪刑法定主義の要請にもとづいて、きっちりと問題の行為があてはまることを意味する。刑法の構成要件――人ヲ殺シタル――の表現は、刑法学の成果の極致の一つとも評せられるから、われわれがそれを読めば常識ですぐわかるというわけにはとてもいかないが、ある行為が構成要件の枠組に入ってくるときには、たいていの場合、犯罪が成立すると見てよい。
(c) 「違法性とは何か?」と聞かれても、学説の対立がはげしく、そう簡単には説明できないが、ここでは一応「法秩序から見て許されない行為の性質」ということぐらいにさせてもらおう。人を殺してもその殺人が正当防衛の結果生じたものであれば、違法ではない。このことは、それが「学説の言う違法性阻却事由の一つとして法規に明文のかたちで示されているから」という形式的説明でかたづけることもできようが、他方で、常識というか物の道理というか、そういう普通人の感覚でもって正当防衛殺人を考えたときにも、同じように、これが決して法に反する行為ではないと判断できるであろう。学説・判例は、法規定がなくても――つまり、超法規的に――違法性が阻却されるケースをいくつか想定して理論を組み立てているが、このようなキメ細かな配慮が、一見して冷酷無比で硬直したシステムと感じとられる刑法を人間性にかなう血の通った制度につくりかえているのである。
(d) 「有責性」についても学説は対立する。われわれの日常用語で「責任がある」とか「責任をとらなくてもよい」と表現されることがよくあるが、この「責任」の観念と刑法上の責任のそれとはかさなりあうところも少なくない。さて、「責任がなければ刑罰はない Nūlla poena sine culpā. 」という標語は、近代法の大原則となった「責任主義」を端的に表現したもので、そのだいたいの意味は、「ある行為に出た者を処罰するには、法的な非難を加えられてもしかたがないだけの一定の心理的な要素――故意・過失――がその者に存在することが必要である」と考えて処理するやり方であり、この標語の基準にしたがって罰せられない行為がよりわけられ、不可罰とされる。今はもう問題にもならないが、他人の責任をひっかぶらされること(連座制・縁座制などの団体責任・連帯責任)も、よくない結果のすべてに対して責任をとらされること(結果責任=客観的責任)もないし、さらに、心神喪失者の行為は刑法のとりあげるところとはならないし、また、違法な行為と知りつつも他に適法な行為をすることが期待できない状況下にあった者の行為も責任を問われないという考え方もある(第26回参照(2020/3/26現在未公開です))。
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。