(第20回)河合十太郎の歩み—京都帝大の数学科の成立まで(一)

数学の泉(高瀬正仁)| 2020.05.04
数学に泉あり。数学は大小無数の流れで構成されていて、今も絶え間なく流れ続けている雄大な学問ですが、どの流れにも源泉があり、しかもその源泉を作った特定の人物が存在します。共感と共鳴。数学の泉の創造者たちの心情と心を通わせることこそが、数学を理解するという不思議な体験の本質です。そこで数々の泉を歴訪して創造の現場に立ち会って、創造者の苦心を回想し、共感し、共鳴する糸口を目の当たりにすることをめざしたいと思います。

(毎月上旬更新予定)

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石川県加賀に生れる

東京帝国大学の数学科は初代教授の菊池大麓が土台を作り,その土壌に 2 代目の教授の藤澤利喜太郎がドイツ仕込みの数学を移植して,日本の近代数学の将来を開く苗木の数々を育てました.西欧の数学を日本で探究するための枠組の制作に寄与したのは菊池ですが,菊池は早い時期から帝大総長になったり文部大臣になったりで教育行政の方面に転じましたから,数学研究の育成という面ではほとんど藤澤ひとりの仕事です.明治 30 年 6 月に京都にもうひとつの帝大が設置され,数学研究の第 2 の拠点ができました.その京大にも東大の藤澤利喜太郎に相当する人物がいます.河合十太郎がその人です.

河合十太郎

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