(第22回)河合十太郎の歩み—京都帝大の数学科の成立まで(三)

数学の泉(高瀬正仁)| 2020.07.03
数学に泉あり。数学は大小無数の流れで構成されていて、今も絶え間なく流れ続けている雄大な学問ですが、どの流れにも源泉があり、しかもその源泉を作った特定の人物が存在します。共感と共鳴。数学の泉の創造者たちの心情と心を通わせることこそが、数学を理解するという不思議な体験の本質です。そこで数々の泉を歴訪して創造の現場に立ち会って、創造者の苦心を回想し、共感し、共鳴する糸口を目の当たりにすることをめざしたいと思います。

(毎月上旬更新予定)

$\def\dfrac#1#2{{\displaystyle\frac{#1}{#2}}}\def\t#1{\text{#1}}\def\dint{\displaystyle\int}$

京都行

明治 20 年 5 月,藤澤利喜太郎が帰朝して帝国大学理科大学数学科の教授に就任したとき,河合十太郎は帝大の第一学年に在籍中でした.この時期の帝大の修業年限は 3 年ですから,河合は引き続き 2 年にわたって藤澤の講義を聴講したことになりますが,二人の間でどのようなことが語り合われたのか,この間の消息を伝える文書はありません.『藤沢博士遺文集』(昭和 9〜10 年) という上中下 3 巻の大きな書物を参照しても河合の名は見あたりませんし,河合は河合で自己を語ることのない人でした.この時期の帝大の学生はごくわずかでした.明治 19 年に河合と同時に数学科に入学したのは二人.もうひとりは元田傳という人で,この人も石川県の出身です.翌明治 20 年の入学者は 3 名,明治 21 年の入学者は 1 名です.教員と学生の間にさまざまな交流が生れても不思議ではないように思われる状況ですし,二人の関係を伝える文献がまったく存在しないというのはかえって不審です.

このコンテンツを閲覧するにはログインが必要です。→ . 会員登録(無料)はお済みですか? 会員について