(第24回)緊急は法律をもたない
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています(内容は付録掲載時のものです)。
(不定期更新)
Necessitās nōn habet lēgem.
12世紀のグラティアーヌスの法令集に見える。正当防衛の場合と同じように、緊急避難を許す法思想は古今東西を問わず散在するようである。
「必要は法律をもたない」という訳にもおめにかかることがあるが、誤解をまねきやすい。泥棒は金が必要なので法律を破るが、だからといって罰せなければ世の中ヤミになるからだ。
さて、緊急避難というのは、読んで字のごとく、ピンチにあたって難を避けさせてもらえる制度であるが、もう一つピンとこないところがある。不正な行為に出た者が正しい人からバッチリと反撃をくらってもしかたがないという正当防衛の趣旨はよくわかるが、緊急避難の場合には、たまたま近いところにいた何も悪くない人(正しい人)が、もう一人の悪くもない人(しかし、結果として他人に迷惑をおよぼす人だからやっぱりよくない人かも)の危難のツケをまわされる(これは危難転嫁行為の場合のことで、危難排除行為なら少し事情はちがう)というのに、後者は、刑法的に見るかぎり(道義的・民事的にはまた話もちがってくるが)、なんらの責任も問われず、すずしい顔をしていられるという扱いになっていて、何か割り切れない感じを人に抱かせるからである。それに、厚かましくて腕力の強い人がトクをするなんて不条理だということにもなろう。そのあたりの不透明さと本質的にかかわりあってくるせいだろうか、法に定められた緊急避難の不可罰扱いの根拠については学説が大きくわかれる(違法性阻却説、責任阻却説、両者をとりいれた二分説)。一般に、刑法はだからこそ面白いのだとする人と、だからこそくだらないのだとする人に二分されるのも、こういうところがきっかけになると思われる。しかし、学説はダテにわかれているのではない。「緊急避難をしかけてくる輩に対して断固正当防衛することができるか?」という設問に対して読者諸君が答えを出すとき、諸君は学説のちがいで答えがかわる可能性の高いことを思い知らされるであろう。閑話休題。緊急避難についての各国の立法のしかたがマチマチであることも、この問題が難物であることを立証している。「緊急避難理論は刑法一般理論の集約される焦点である」とされるのも当然であろう。
いずれにせよ、緊急避難行為は人々にあまり歓迎されざる客であるから、その成立には実にきびしい条件がつけられている。詳細は刑法総論の教科書にゆずるとして要点だけ記すと、3つがポイントになる。補充の原則(「唯一性の原則」)は、緊急避難のさい他にとるべき手だてがない――つまり唯一無二の方法である――ことを要求する(「已ムコトヲ得サルニ出テタル」)し、法益均衡の原則は、実際に生じてしまった害の方が避けようとした害の程度をオーバーしないことを要求する(「其行為ヨリ生シタル害其避ケントシタル害ノ程度ヲ超エサル」)。そして、緊急避難を生みだしうる事実状況として、正当防衛の場合とはちがい、きっかけの不正性が要求されていない点では間口が広いが、守られうる法益の幅はいくらか狭くされている。
なお、緊急避難のさい、やむをえない程度を越えたり、生じてしまった害が避けようとした害の程度をオーバーしたときには、過剰避難となり、他方で、現在の危難がないにもかかわらずその存在を誤想して避難行為に出たときは、誤想避難となる。
むつかしい話はそれくらいにしてもっと具体的に考えてみよう。極限的な状況を想定するが、人間は、自分の生命が、たとえば飢えのためにピンチに立たされたとき、何もしないでじっと死を待てるか? あるいは待つべきか? たまたま手のとどくところに自身の生命を救うものがあれば、そちらのほうの事情など意に介さず、なりふりかまわずにそれに手を出すことができるか? それが他人の生きた肉体であってもそうするか?
(a)1972年にアンデス山中で飛行機が墜落したとき、生存者は救出されるまでのあいだ死者の肉を食べていた。ここでは死体損壊罪などほとんど問題にされないであろう。(b)1884年イギリス船が難波し、漂流していた人たちは、18日目に食糧がなくなって、仲間を殺して食べた。ミニョネット号事件がこれである。生存者はイギリス本国で謀殺のかどによりいったん死刑判決をうけたけれども、特赦により6ヵ月の軽懲役に処せられる。(c)仮定例かもしれないが、ギリシア起源の「カルネアデースの板」という意地悪い質問がある。難破により海に投げだされた2人の前に1枚の板切れがある。1人つかまるだけなら浮くが、2人なら確実に沈む。1人が他をつきおとして助かったとき、刑法的にはどうなるか?
(a)の場合は生命と死体だから、法益に格差があると見てよいが、(b)(c)では生きている人間同士の話なので、法益はまずイコールと考えなければならない。緊急避難でこれを処理することがいちおう考えられるけれども、それでも理論的説明がうまくつかないのなら、第26回で扱う期待可能性理論や、さらに超法規的説明で何とか切りぬけることも可能であろう。
いずれにしても、緊急避難は、避難する側にそれ相当の理屈があるにしても、(b)の例に即して言うなら、それは「食う側の論理」であり、「食われる側の論理」からすると、迷惑しごくで、後者は殺人の被害者となんら変わりはない。せめてジャンケンで主体と客体の立場を決めればいくらかでも自然法にかなうところもあるのだが、こういう自然状態では、女よりも男、老人・子供よりも成年のほうが有利に決っている。「法は倫理の最低限」と軽蔑と自嘲をこめて言われるのは、法にふれないからといって大きな顔をするのはお門ちがいであるという意味であるが、緊急避難を罰せない法など、見る人によっては最低線スレスレであろう。
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。