(第24回・最終回)和算のこころの復興を願う — 萩原禎助が提出した2問題をめぐって

数学の泉(高瀬正仁)| 2020.09.07
数学に泉あり。数学は大小無数の流れで構成されていて、今も絶え間なく流れ続けている雄大な学問ですが、どの流れにも源泉があり、しかもその源泉を作った特定の人物が存在します。共感と共鳴。数学の泉の創造者たちの心情と心を通わせることこそが、数学を理解するという不思議な体験の本質です。そこで数々の泉を歴訪して創造の現場に立ち会って、創造者の苦心を回想し、共感し、共鳴する糸口を目の当たりにすることをめざしたいと思います。

(毎月上旬更新予定)

$\def\dfrac#1#2{{\displaystyle\frac{#1}{#2}}}\def\t#1{\text{#1}}\def\dint{\displaystyle\int}$

円に沿って旋転する棒の接点の軌跡の弧長

東京数学会社が発行していた数学誌『東京数学会社雑誌』の第 24 号 (明治 13 年, 1880 年) に岩永義晴という人の投書があり,萩原禎助の著作『算法円理私論』(明治 10 年, 1877 年) 所収の一問題が取り上げられています.

平面上に円が描かれていて,その円に棒の端点が接触しています.接点を黒丸にして際立たせ,棒を円周に接した状態を保ちながら旋転させていくと,黒点はおのずと円周を離れて螺旋状の軌跡を描きつつ移動します.棒の旋転が進むと,やがて当初は円に接触していなかったもうひとつの端点が円と接触しますが,ここにいたるまでに黒点が描く軌跡の長さを求めよというのが,岩永義晴が再現した問題です.萩原禎助は円の直径を 1 寸,棒の長さを 9 寸とするとき,黒点の軌跡の長さを問うて,「81 寸」という解答を書き添えましたが,解法は記されていません.そこで洋式,すなわち西欧の数学の手法により解答を得たのでここに紹介するというのが,岩永義晴の投書の主旨です.萩原禎助は幕末から明治期にかけてその名を知られた上州群馬県の和算家で,生年は文政 11 年 (1828 年) ですから明治 10 年の時点で 49 歳.ほとんど最後の和算家と見るべき人物です.

このコンテンツを閲覧するにはログインが必要です。→ . 会員登録(無料)はお済みですか? 会員について
ページ: 1 2