科学と政治:日本学術会議の会員任命拒否問題をめぐって(広渡清吾)

特別寄稿/日本学術会議の会員任命拒否問題をめぐって| 2020.10.06
特別寄稿:日本学術会議の会員任命拒否問題をめぐって

2020年10月1日、「日本学術会議」が推薦した新会員候補6人について、菅義偉首相が任命を拒否していたことがわかりました。日本学術会議の元会長 広渡清吾さん(東京大学名誉教授)に、その問題点と重大性について寄稿いただきました。なお、10月2日に日本学術会議が内閣総理大臣に提出した「第25期新規会員任命に関する要望書」はこちらです(日本学術会議ウェブサイトPDF)。

菅首相の任命拒否はどこに問題があるのか

なぜ、菅首相はこれまでの学術会議法の運用に反して、6名の任命を拒否したのか。官房長官と首相の断片的な応答によれば、この措置は「法に基づくもの」であり、任命拒否の権限は、国家機関としての学術会議を所管する内閣府、その長である首相に監督権があり、それによる、という。学術会議法の学術会議の「推薦に基づき、首相が任命する」(第7条、第17条は学術会議が推薦するための選考について規定し、「優れた研究又は業績がある科学者」という選考基準を明示する)という規定の解釈について、これまで学術会議と菅政権以前の政権(ただし菅政権は安倍政権の方針を踏襲している。安倍政権の時期に今回の事態にいたる準備と動きがあったことは、すでに新聞などで明らかにされている)は、首相が任命を拒否することがありえない、と考え、それと正反対に菅首相は任命拒否もできると考え、それゆえ自己の決定を「法に基づく」と述べている。

この規定の解釈について、10月2日の記者会見で加藤官房長官は、「2018年11月に内閣府と内閣法制局の協議で確認した」と述べた。2020年9月、今回の案件の直前にも同種のことが行われたことを内閣法制局は認めている。この「確認」とは、菅首相の上記解釈を内閣法制局が内閣府の要求にしたがって認めた、ものであるとだれしも推測する。これは、学術会議にとってまぎれもなく「政府解釈の変更」であるが、菅首相にとってはこれまであいまいだったものを「確認」したという論法がなりたつ。ただし、《学術会議の推薦と首相の任命》の仕組みがはじめて採用された1983年改正の国会審議では、首相の任命権は形式的なものであり、学術会議の推薦が尊重されるという趣旨を当時の中曽根首相も担当大臣も国会で答弁している。

2004年以降も、《学術会議の推薦と首相の任命》の仕組みは同趣旨であり、これを踏まえると「変えたのではなく確認した」となお強弁できるかどうか。ただし、そもそも「内閣法制局との協議による確認」が法的に意味のあるようなものとして存在したのか、これ自体もいまのところ明瞭でなく、政府の国会答弁の変更になれば、内閣法制局と内閣府の協議ですむレベルの問題ではない。

この論法には多くの人に既視感がある。安倍政権は、憲法9条がそもそも集団的自衛権を認めないものという長年の国会および政府の解釈を、さまざまに言いくるめて解釈の変更ではなく、状況変化に適応した解釈の確認、として安保法制を強行したが、その論法である。立憲民主党を中心に野党は、10月下旬開催と予想されている臨時国会を待たずに、閉会中審査として委員会審議でこの問題を追及するようである。安倍亜流政権の菅政権(安倍政権を上回る強権性を示しているから、亜流政権という表現はふさわしくないかもしれない)のこの「論法」に野党はどう対応するか。

学術会議は、内閣府設置法によって、内閣府の所管のもとの「特別の機関」とされている。内閣府のトップは内閣総理大臣(首相)であり、首相がその権限として学術会議に対して行政上の監督権をもつことは一般論としてそうである。問題は、その監督権の範囲である。この監督権の具体的行使は、学術会議法によるべきであり、とりわけ学術会議法が「独立に職務を行う」(第3条)と規定しているので、それが首相の監督権行使の基準とならなければならない。仮に、学術会議の会員選考において、学術会議法の規定や趣旨に反することが行われたということであれば(学問的基準以外の理由で選考した)、首相は任命に際して、監督権を行使して、それを正さなければならない。その場合には、首相がまずそのことを根拠づける説明と資料が必要である。

菅首相は、前例主義や既得権の打破を所信としている。学術会議の推薦をそのまま認めることは、悪しき前例主義であり、また、そのような推薦権を学術会議に認めることは既得権擁護である、とひょっとしたら考えているかもしれない。しかし、今回の案件がこのような所信を適用する場所でないことは、だれがみても明らかであり、菅首相がこうした理屈をもちだすことはよもやあるまい。と、ここまで書いた後に菅首相の説明記者会見が10月5日に行われた。首相は、「推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのかと考えてきた」と述べた。

さて、菅政権の任命拒否の本質的問題をどこにみるかである。これは、学術会議法の条文の解釈問題にとどまらず、そもそも学術会議という組織がなぜ戦後日本に創設されたのか、その創設の趣旨にしたがって、学術会議はどのような位置づけを与えられたのか、そして、そこでは、政治と科学、学術会議とときどきの政権の関係はいかにあるべきか、という問題に思いを致して考えなければならない。

単純に問題を立ててみよう。メディアの多くが報道しているように、任命を拒否された6名は、安倍政権下のいわくつきの立法、つまり、市民の知る権利を制限し軍事機密等の保護を強化する特別秘密保護法、集団的自衛権を可能にする安保法制、罪刑法定主義を危うくし市民の人権制限を生み出す共謀罪法に対して、あるいは沖縄の辺野古基地建設をめぐる争訟について、それぞれその学問的見地から政権を批判した経歴をもっている。メディアは、だから、政権がこれを理由に排除したのだろうと推測している。

また、6名は、その専門がすべて人文社会科学分野に属し、第1部の会員として予定されていた。学術会議は、創設の時から戦争に反対し、科学が戦争に協力すること、すなわち軍事研究に一貫して反対し、2015年から防衛省が始めた公募型研究「安全保障技術研究推進制度」を科学者が利用することについて「学問の自由」をおびやかす恐れがあるとして全国の大学・研究機関が慎重であるべきことを声明した(2017年3月「軍事的安全保障に関する声明」→PDF)。この声明は、学術会議において激しく議論が行われたうえで決定されたが、声明の成立には、人文社会科学系分野の会員が大きな役割を果たした。そこから、政権は、人文社会科学系の会員に狙いを定めたのではないかという推測も行われている。

いずれにせよ、菅首相は6名の任命を拒否したことで、社会のなかに、首相が政権批判をする科学者を排除する隠れた意図をもっているのではないかという疑いを作り出してしまった。だとすれば、今回の任命拒否は、始まりであり、終わりではない。これは、当然の疑いである。だからこそ、疑いを晴らすことが、首相の説明責任であり、学術会議も説明を要望している。しかし、この説明は、おそらく困難を極める。なぜなら、学術会議会員の選考基準は、学術会議法によって「優れた研究又は業績のある科学者」と規定され、学問的基準が決定的であるからである。科学者の組織である学術会議が学問的基準によって選考した科学者を首相が「会員にふさわしくない」と拒否するためには、それについての学問的根拠を示さなければならない。だれもこれを可能だとは思わないであろう。

菅首相は、それでは、学問的根拠以外に任命拒否の合理的、つまり、当事者、関係者と社会が納得するような理由を示すことができるだろうか。そうでないとすれば、政治的理由、つまり、首相にとって、政権にとって不都合であることが理由としか言えなくなる。開き直って、政治的理由によって任命拒否をすることがなぜ悪いか、と逆に問題を立て見よう。菅首相は、かねてから霞が関中央省庁の幹部人事について、政権の政策に反対する者は交代させると広言している。なぜなら、自分は民主主義によって選ばれ正統な権限を持つ者であるから。これは、学術会議会員の任命に適用可能な「命題」だろうか。

ここに至ると、政権が、あるいは自民党が菅政権のこの措置を支持しているとすれば自民党政治そのものが、政治を進めていくうえで、科学をどのように位置づけているか、学術研究の成果、科学者の力をどのように活かすと考えているか、についての基本的認識、態度を問題にしなければならないことになる。

政治は科学をどう活かすのか

政治と科学の関係を一般的テーマとして論じることは、もちろんここでの課題ではないが、今回の任命拒否問題の本質がそこにあることを考えてみなければならない。つまり、政権が科学を自分のために使う立場(役に立つかどうか)でみているのではないか、政権が科学者を自分のために使う立場(役に立つかどうか)でみているのではないか、ここに問題がある。

学問の自由は、科学者が、真理の追究というコードと真理追究の科学者共同体(scientific community)に共有されたルールの下で、あらゆる制約から離れて、独立に、学術研究を行うことを保障する。「学術の中心」としての大学(学校教育法第83条)は、典型的に、学問の自由によって基礎づけられるべき公共的施設であり、それは国公私立を問わない。そして、このような自由を保障される科学者は、同時にこの自由の行使について科学者としての社会的責任を負う。科学者コミュニティは、この自由と責任の共有に基礎づけられている。

学術会議は、学問の自由のもとで行われる学術研究の成果をもちより、これらを活かして、政府と社会に対して学術的助言をおこなうことを活動の目標とする。学術会議は、学術研究が直接いとなまれる場所ではない。そのような意味で、大学のように、学問の自由が直接に問題になるわけではない。だが、学術研究の成果をふまえて助言を審議検討し、作成するプロセスは、学問の自由と同様に、学術的議論の自由が必要であり、これが学術会議の独立性の保障として位置づけられる。学術会議は、学問の自由の成果としての学術的知を政府と社会に対して、適切な形で集約し、総括し、提示・助言し、知の伝動ベルトとして、まさに科学を活かす役割を担うのである。

政府は、政策の決定や遂行について、科学者を専門家として利用する。各省庁の多くの審議会では専門家としての科学者が役割を果たしている。これらの専門家も科学者としての社会的責任を自覚して学術的貢献をすべきであることはいうまでもない。とはいえ、一定の政策目的が政治的に決定され、そのための専門的知見が求められるところでは、それに「役に立つ」科学者が重用されることは多くありうる。ここで政府が科学者と科学的知見を自分に都合の良い形で利用しようとすれば、そこには、今回の任命拒否問題と同根の問題をみなければならない。

よく知られているように、コロナ危機のなかで、政府は、2020年2月に感染症対策本部のもとに「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」を設置した。同会議は、感染症や公衆衛生の専門家12名によって構成され、以降、5月29日に至るまで、政府と市民に対して、現状を分析し、それに基づく提言を行ってきた。これらを見ると、専門家会議は、感染症の拡大を防ぐための学術的助言を自己の任務と考えていたと受け止め得る。たしかに、専門家会議の開催を決定した対策本部の要項にも「対策本部の下、対策について医学的な見地から助言等を行うため」と規定されていた。ところが、専門家会議は、5月24日、担当大臣の記者会見における唐突な廃止表明で、その活動を終わった。

専門家会議の廃止の後には、その代替としてあらたに「感染症の専門家だけでは判断できない問題について議論するため」「都道府県知事、経済界、労働界、マスコミ関係者などで構成」する「新型コロナウイルス感染症対策分科会」が設置され、現在まで活動している。専門家会議から分科会へのこの転換は、学術的助言機関から審議会への転換であるといえる。政府・対策本部は、学術的助言に適切に対応できなかったのではないか。つまり、あるときは政府の無策を専門家会議の助言で代替し、あるときは政府の政策を助言によって正当化するが、政府の採ろうとしている方向に矛盾する助言が出ると、それを煙たがり、排除したいと考えるという経緯があったのではないか。

ここでの問題は、学術的助言をそのものとして尊重し、それを十分に考慮しながら、同時に政治的な決定については政治が責任をもって行うという関係を作ることができなかった、ということである。政治は、社会の様々な利害を調整して方向を選択しなければならない。民主主義の下では、政治の判断基準は、民意であり、科学ではない。しかし、科学は、学問の自由のもとに政治的経済的思惑から独立に社会を客観的に判断する基準を示すものとして政治によって尊重されなければならない。政治が民意に基づきながら、科学を尊重するとすれば、その間のギャップについて、政治の説明責任と決定責任が必要である。そしてもっと大きく言えば、社会のなかで市民の科学的知見と科学的態度が普及し、確立するのに応じて、民意と科学のギャップは小さくなるであろう。

学術会議の役割は、このような政治と科学の関係の理解において、はじめてよく発揮しうるものといえる。科学は、真理を探究するが、科学の産み出すものがつねに良きものであるとは限らない。原子エネルギーの発見は、人類の知的発展を意味するが、それは人類に最大の悲惨を産む原子爆弾の社会的実装に結果した。科学者の社会的責任は、真理探究の自由と同時にたえずそのあり方が探索され、実行されるべきものである。学術会議は、科学的助言活動とともに、科学者の社会的責任を科学者コミュニティが共有すること、また、社会に広く科学リテラシーを普及することを重要な課題にしている。

学術会議を国費で運営することは、戦前日本を教訓として、日本国憲法の下、政治と科学の民主主義社会における新しい関係を構築する柱として位置づけるという考えに拠っている。とはいえ、210名の会員および2000名近い連携会員が活動するための資金は、日常的に不足し、手弁当に負っているのが実情のようである。会員・連携会員を動かすのは、科学者の社会的責任を果たそうとする使命感であり、金銭でないのはいうもおろかなことである。

かつて行政改革のなかで学術会議の独立行政法人化や民営化のアイディアがでたことがある。いままた、機に乗じてというしかないが、同様の議論がある。学術会議の年間予算は現在、10億円程度である。この予算で、60名近い事務局職員の人件費がまかなわれ、210名の会員、2000名の連携会員の審議・調査活動、国際活動その他の活動に手当てが行われる。もとより、貴重な税金で賄われており、それゆえに、学術会議が政府から独立の国家機関として、学術の全領域にわたる科学者組織として設立され、維持されていることは、日本の市民の科学に対するリスペクトを示すものと考えなければならない。学術会議は、そのような信頼に応える責務を負っているのである。政府は、正しくこのことを理解しなければならない。

(2020年10月6日記)

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広渡清吾(ひろわたり・せいご/東京大学名誉教授、日本学術会議元会長)