『子育て支援の経済学』(著:山口慎太郎 )

一冊散策| 2021.01.26
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はしがき

子育て支援の 3 つの役割

世界中で出生率の低下が進むなか、子育て支援のための政策が多くの先進国でますます重視されている。もちろん日本もその例外ではない。保守的とみなされた安倍晋三政権でも、アベノミクス成長戦略「新・三本の矢」の第二の矢として「夢をつむぐ子育て支援」を据え、「希望出生率 1.8」の実現を目標とした。こうした姿勢が後継の菅義偉政権にどの程度受け継がれるかは現段階では未知数だが、不妊治療の保険適用を自民党総裁選で公約に掲げるなど、少子化対策への関心はみせている。

ほとんどの子育て支援策の目標は、出生率の向上とされることが多い。少子高齢化が進み、少数の現役世代が多くの引退世代を支えるために、出生率の引き上げが社会的に望まれていることは確かであるが、子育て支援策の役割はそこにはとどまらない。この本で取り上げるように、子育て支援策には、子どもの心身の健全な発達を促すことを通じて、次世代への投資を行うという重要な役割がある。近年のさまざまな研究が、幼少期の教育や環境がその後の人生に大きな影響を及ぼすことを明らかにしてきた。保育のような子育て支援策には多額の公的支出をともなうが、次世代の人々がよりよい人生を送り、彼ら・彼女らがよい社会を築くうえで不可欠な投資なのだ。さらに、子育て支援策は女性の労働市場進出の助けとなることも見逃せない。男女平等の観点からはもちろん、経済成長の観点からも女性の労働市場進出は歓迎すべきことだ。労働力不足が懸念されるなかで、女性の働き手が増えることは問題解決につながるし、労働力の多様性を実現することはイノベーションの促進にもつながることが明らかにされてきている。

確かに効果のある政策は何か?

この本では、政府が行う子育て支援、より具体的には育児休業 (育休) 制度や保育制度、そして児童手当といった諸制度・諸政策についての経済学研究から得られた知見を紹介する。重視するのは実証研究、ないしはデータ分析が明らかにする因果関係だ。さまざまな子育て支援策について、「期待されたような効果は本当にあったのか?」「あったとすればどの程度の大きさなのか?」といった点を明らかにしていく。「効果のある政策はより大規模に行い、効果がないことが明らかになった政策は縮小・廃止する」といった姿勢で取り組むことで、長期的には効率性の高い経済・社会を実現することが期待される。子育て支援分野における実証結果に基づく政策形成 (EBPM:Evidence-Based Policy Making)に寄与するのが、本書の目的の 1 つだ。

子育て支援策について論じた書籍には、すでに優れたものがいくつか出版されているが、因果関係を明らかにするエビデンスの紹介を重視するのがこの本の特徴だ。ある子育て支援策が行われた時期から出生率が上がったり、女性就業率が上がったりしたからといって、それらが子育て支援策の成果なのかどうかは明らかではない。同時期に、たまたま景気が良くなったのであれば、その結果、出生率や女性就業率の上昇がみられるだろう。ある政策がどのような効果を持ったのか評価するには、それにふさわしい統計的な分析手法がとられなければならない。子育て支援策の効果を明らかにしたと称する研究論文は多数あるが、そのなかでも一定程度、分析の質を保って、政策と出生率や女性就業率の間の因果関係を明らかにすることを試みた論文は多くはない。この本は、そうした質の高い研究に絞って紹介する。エビデンスを紹介するにあたっては、それがどのように導き出されたかがある程度理解できるように、分析手法についてもわかりやすく解説している。ただし、本文では数式を使わずに、グラフを利用して視覚的に因果関係を導くための議論が理解できるように工夫した。統計の専門的な知識がなくても、そのエッセンスを知ることができるはずだ。一方、より厳密な議論を知りたい読者は、巻末付録で詳細な議論を追うことができる。

もちろん、この本では経済学の議論も押さえている。単に実証分析の結果と統計的分析手法を紹介しているだけではなく、「なぜ政策的対応が求められているのか?」「どのような政策が社会にとって望ましいのか?」「政策はどのような効果を持つと考えられているのか?」といった点について、経済学の理論に基づいた説明も行っている。この本を通じて、子育て支援策についての経済学的分析の全体像をつかみとってほしい。

本書の読み方・使い方

この本が想定する読者は、子育て支援のための政策に関心のある一般の方々である。当事者としての子育て世代はもちろん、日本社会や政策について関心のある人々を広く対象にしている。この本のいたるところで経済学の概念や分析手法が出てくるが、前提知識を想定せず、その都度丁寧に説明するよう心掛けたので、経済学や統計学を学んだことがない人でも無理なく読み通せるはずだ。一方で、すでに一定の知識を持っており、より進んだ数式を含む議論も学びたい読者のために、章末には経済理論の、巻末には実証分析の詳細を解説した付録をつけてある。官庁やシンクタンクで専門的な分析を行う方々や、学習・研究に取り組む学生の方々は役立ててほしい。

また、この本は経済系に限らず、広く人文社会系の大学で学ぶ学生の方々も読者として想定しており、本文だけなら専攻にかかわらず読めるように書かれている。授業やゼミで活用される場合は、習得済みの知識や数式に対する理解度に応じて、章末補論や巻末付録を授業や課題に組み込んでいけば、経済学部上級や大学院修士課程でも利用可能だ。授業等での活用を助けるために、出版社のサポートサイトに講義用のパワーポイントスライドを用意しているので、利用を希望する先生方はそちらも確認してほしい。サポートサイト (日本評論社ホームページ内):

https://www.nippyo.co.jp/blogkeisemi/booksupport_guide/55903-5/

本書の構成

第 1 部「子育て支援で出生率向上」では、子育て支援の少子化対策としての役割を評価する。第 1 章「なぜ少子化は社会問題なのか?」では、少子化が社会問題であるという経済学の理論的な根拠を明らかにする。少子化は社会問題であるという認識が一般的であり、それを前提としてさまざまな政策が議論されることが多いが、その根拠について厳密な形で議論されることはまれだ。少子化対策を論じるうえでの前提となる議論なので、しっかりと理解しておきたい。第 2 章「現金給付で子どもは増える?」では、子育て支援のなかから児童手当と育児休業給付金を取り上げ、そうした現金給付が出生率に及ぼした影響を評価する。第 3 章「保育支援で子どもは増える?」では、待機児童解消などの保育制度の充実が、出生率に及ぼした影響を評価する。第 4 章「少子化対策のカギはジェンダーの視点?」では、さまざまな子育て支援策のなかで、どれが最も少子化対策として有効なのか検討する。詳しくデータを検討した結果から導き出された最新の経済理論によると、単なる子育て支援ではなく、家庭内におけるジェンダー平等を促進させるような支援策こそが少子化対策として有効だ。この理論と、それを支持するデータについても紹介する。

第 2 部「子育て支援は次世代への投資」では、子育て支援が子どもの発達に及ぼす影響を評価する。第 5 章「育休政策は子どもを伸ばす?」では、育休制度を取り上げる。育休の役割の 1 つには、生後間もない子どもと母親がともに過ごせる時間を増やすというものがあるが、それは果たして子どもの発達にどのような影響を及ぼすのだろうか。その政策効果を評価する。第 6 章「幼児教育にはどんな効果が?」では、保育所や幼稚園といった広義の幼児教育施設の役割を評価する。意外に思われるかもしれないが、経済学のなかで、いま最も注目されている研究課題は、幼児教育が子どもの発達に及ぼす短期的・長期的影響の評価だ。この章では、その最新の経済学的知見を紹介する。第 7 章「保育園は子も親も育てる?」では、日本の保育所に注目した筆者自身の研究を詳しく紹介する。この研究が明らかにしたのは、保育所通いは子どもだけでなく、母親にとっても好ましい影響を及ぼしたという点だ。

第 3 部「子育て支援がうながす女性活躍」では、子育て支援が女性の労働市場進出に及ぼした影響を評価する。第 8 章「育休で母親は働きやすくなる?」では、育休制度の充実が育休期間やその後の職場復帰にどのように影響を及ぼしたのか評価する。第 9 章「長すぎる育休は逆効果?」では、日本の育休制度を分析した筆者自身の研究を詳しく紹介する。現行の育休制度はどれくらい女性の就業を助けているのか、かつて安倍首相が提唱したような「育休 3 年制」を導入したら女性の就業はさらに増えるのかという点について、評価を行っている。第 10 章「保育改革で母親は働きやすくなる?」では、待機児童の解消といった保育所整備が実際に女性就業を増やしたかどうか評価する。保育所を増やせば母親の就業が増えるのは当たり前と思われがちであるが、理論的にも実証的にも、必ずしも母親の就業が増えるわけではない。ここでは、一見不思議に思えるこの現象の背景を明らかにする。第 11 章「保育制度の意図せざる帰結とは?」では、日本の保育所整備に注目した筆者自身の研究を詳しく紹介する。待機児童が発生している地域では、自治体が保育利用を申し込んだ家庭に優先順位をつけて上位から順に利用を許可する「保育利用調整」を行うことが一般的だ。より必要性の高い家庭を優先させるための制度であるが、この制度がかえってあだとなり、政策としての有効性が失われているのではないかという懸念を示す。巻末付録「実証分析の理論と作法」では、本文中で取り上げた実証分析手法についての詳細な議論を数式をもちいて解説している。先端的な研究論文を読みこなせるようになりたい、自身も実証研究を行いたいという意欲的な読者は、ぜひこの付録に挑戦してほしい。

***

本書の執筆にあたっては、内閣府経済社会総合研究所研究員の深井太洋氏に査読していただいた。深井氏は労働経済学、なかでも保育政策については本邦最高の専門家の一人で、筆者自身気がついていなかった数々の重要な点について適切なコメントをくださった。査読前後で本書の内容が大幅に改善されており、深く感謝したい。もちろん、本書に残る誤りは筆者自身の責任である。本書を最初に企画された編集者の斎藤博氏には、執筆のきっかけをいただいた。その後を引き継いだ編集者の尾崎大輔氏には、本書のもととなった『経済セミナー』の連載以来、一貫して助けていただいた。優れた編集者とともに仕事をできるかどうかが、満足のいく本を執筆できるかどうかを左右することを改めて確認した。お二人にも深く感謝する。

2020 年 10 月

山口慎太郎

ページ: 1 2