(第28回)誰も有罪とは推定されない
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています(内容は付録掲載時のものです)。
(不定期更新)
Nēmō malus praesūmitur.
英法の格言
本来、この格言は、第27回の格言に示された理念をウラ側から眺めたものにすぎず、被告人が、刑事訴訟法上、まず「無罪の推定」をうけており、この推定がつき破られないかぎり、有罪とされることはないことを意味するもののようである。しかし、「何人も有罪と認定されるまでは無罪とみなされる」という命題(ブラックストン)にも少し反映しているように、日本においては、表題に示した格言は、証拠にかんする格言というよりは、むしろ、被疑者・被告人が有罪判決の成立(あるいは確定)までは社会的にできるかぎり通常人と同じに扱われなければならないとの人権保障のタテマエを示すものと一般にはうけとられている。このあたりの状況を模式化して示せば以下のようになろう。後者の理解のしかたでこの格言をとらえると、第一審の判決にかんするかぎりでは、もともと針はゼロ地点にあって、有罪なら動いて100にふれ、無罪ならそのままゼロの位置にとどまるといういわば静的な状態が示されるのに対して、「疑問のある場合には被告人に有利に」の格言は、裁判の過程で、100からゼロに向う方向において、量および質がたえずプレッシャーをかけており、常時針が左右に大きくゆれ動いている動的な状態を総括した表現とでも考えられようか。もし「誰でも無罪と推定される」というようにこの格言を書きなおすと、さきの二つの格言の差が紙一重になってしまうようにも感じられるのは言葉の不思議さのせいである。
さて、現代のわれわれにとって問題なのは、「有罪認定(確定)までは無罪扱い」というタテマエがちゃんとあっても、現実(ホンネ)の世界では、それがほとんどきいていない点である。世間では、起訴された場合はもちろんのこと、それより低いレベルにおいて容疑者として逮捕がなされたときに、官憲の手にかかった人をほとんど有罪であるとキメつけてしまう傾向が依然として強い(あのロス疑惑の三浦氏のケースにいたっては、警察が表立っては全く動いていない段階においてすでに有罪風扱いがマスコミで見られた点で異例の言語道断ぶりであった)。
拙著『法のタテマエとホンネ』で詳細に述べたのでここでは要点だけにするが、われわれは、タテマエにはそれなりに敬意を払う国民性をもっていて、さきの「無罪の推定」にしても、心中不満ながら表向きはそれをうけいれるように振舞うのがつねであるけれども、つぎに引用する、戦前戦後にわたり有数の知識人である石川達三氏の文章は、そういうウラオモテのある態度をかなぐりすてて見事に本音を言いきった点で、注目に値する。書かれたのは1981年だから、その後「田中有罪」の第一審判決が出て、この文章は歴史的文書と化してしまったけれども、今なお日本人の心情を素直に伝えて価値がある。
田中角栄氏は遠からず無罪になるだろう。理由は証拠不充分であって、「疑わしきは罰せず」という原則がある。たとい有罪になっても被告は直ちに控訴、更に上告して、最終判決までにはなお7、8年もかかり、その間も田中氏は当選が続く限り国会議員であり、国は歳費を払いつづける。(中略)一体、有罪の判決が有るまでは無罪というのはどこに書いてある規定なのか。この言葉そのものが甚だ怪しげである。まるで中学生の理論のように短絡的であって、筋が通らない。有罪の判決が有るまでは有罪では無いが、無罪でもないはずである。無罪だという根拠はどこにも無い。したがって選挙の票数は当選圏に入っていても、その票数には疑問があり、疑問が解決しない限りは無罪も確定してはいない。無罪が確定していなければ議員としての資格をも確認することはできないはずである。当然、「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」されなくてはならない。勿論歳費の支給も保留されるべきであり、いわんや国会議事堂に入って国政を論ずるなどは言語道断であるべきだと思う。それを従来は「有罪がきまるまでは無罪」という変な考え方で、有罪かも知れない人物が国政を論じていた。つまり、犯罪人かも知れない人間が政治家づらをして、吾々庶民を支配し号令していた。(中略)私は法秩序恢復の一つの手はじめとして、「有罪の判決が有るまでは無罪だ」と言う一般的な論理を、是非とも訂正してもらいたいと思う。「無罪という判決が有るまでは無罪ではない」のだ。当然、無罪の人に与えられるべき各種の権利、待遇もまた保留されるべきである。この馬鹿々々しいほど当り前な事がなぜ今日まで歪められて来たのか」(太字引用者)。
ところが、状況は変り、石川氏の予想に反して、司法は一つの見識を示したが、しかし、田中(有罪判決後には呼びすてにさせてもらおう)は以前にもまして健在であり、政治のしたたかさのみが眼につく今日この頃である。彼は巨額の保釈金をつんで、実刑をうけていながら獄外で堂々と政治的活動を展開することを許され(金も力もない庶民なら獄につながれなければならないというのに!)、最高裁で決着がつくまであと5~6年(?)のあいだ、無罪と同様の扱いをうけて太陽の下を堂々とカッポすることになろう。第一審の幕がおりて「無罪の推定」はいちおうのところ消えうせたにもかかわらず、政治の世界では、判決が確定するまで依然として無罪の推定が働いていると拡大解釈することによって、彼の国会議員の地位に手をつけまいとする動きが強力である(いや、ひょっとすると、最近にわかに現実性を帯びてきた「最高裁のあとにまだ再審がある!」という感覚でもって、彼に政治家としての生命のあるかぎり永遠に裁判闘争がくりひろげられるかもしれない)。今なお辞職勧告決議案とかいろいろなこみいった手が考えだされているようであるけれども、「憲法にかかげられた三権分立の理念にもとづき、立法府の構成員としての国会議員は、かりに司法府たる裁判所から有罪判決をうけても、その地位に影響を蒙るべきではない」という立派なもう一つのタテマエとあわせて、政治的「無罪の推定」のタテマエは、田中をしっかりとガードしているのである。法治国家万歳!
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。