国家安全維持法下の香港はいま(阿古智子・増山健)
人が法に奉仕するのではない(阿古智子)
国家安全維持法が施行され、香港の政治的引き締めは日に日に厳しさを増している。
先週4月16日に行われた裁判では、2019年8月18日に無許可で抗議集会を組織したなどとして、民主派の元立法会議員ら9人が有罪判決となった。
『蘋果日報』(アップル・デイリー)創業者の黎智英(ジミー・ライ)は禁錮1年。黎智英は国家安全維持法違反と詐欺罪でも起訴されている。あとは全て元立法会議員だ。梁国雄(ニックネーム 長毛)が禁錮18ヶ月、李卓人が1年、李柱銘(マーティン・リー)が11ヶ月(執行猶予2年)、何秀蘭が8ヶ月、吳靄儀が1年(執行猶予2年)、何俊仁が1年(執行猶予2年)、梁耀忠が8ヶ月(執行猶予1年)。
東京大学の博士課程に在籍している區諾軒(アウ・ノックヒン)は禁錮10ヶ月だった。彼も国家安全維持法違反でも起訴されている。私はアウ君の身近にいたのだから、もっと努力すれば、彼を香港に彼を帰らせずに済む方法を探せたのではないかと、後悔の念に苛まれる。とはいえ、彼のような人を受け入れる環境を整えていない日本にいても、彼は幸せだっただろうか……とも思う。
◆阿古智子「アウくん、どうか一日も早く 日本で大学院の学業を再開できますように」(香港 あなたはどこへ向かうのか 番外編)
有罪判決を受けた9名は、香港の宝物のような人たちばかりだ。言論の自由を、法の支配を、民主主義を、労働者やマイノリティの権利を守ろうと闘ってきた。ネットメディア『立場新聞』が伝えていた大律師(バリスター、法廷弁護士)で元立法会議員の呉靄儀の陳述書が素晴らしく、読んでいて思わず涙が出た。彼女の人生が、志が、信念が、力強い言葉で表現されており、心震わされた。人間の叡智が結集されたこの文章は、国家の威信を振りかざして流し続けられている陳腐なプロパガンダとは対局にあると感じた。
彼女が弁護士としてのキャリアをスタートさせたのは40歳になってのことだ。ボストン大学で西洋哲学の博士号をとり、銀行で勤めたこともあるが、すぐ嫌になってケンブリッジ大学で法律を学ぶことにしたという。香港の代表的英字紙『サウスチャイナ・モーニングポスト』でコラムを書き、弁護士になってからもすぐには法曹界で働かず、中国語の日刊紙『明報』で副編集長を務めるなど、メディアで活躍した。呉靄儀は中国語圏で絶大な人気を誇る金庸の武侠小説の研究者としても有名だ。このような経験を生かして、彼女は一般の人にわかりやすい言葉で法律を伝え、コミュニティの法律サービスを充実させることに尽力した。彼女は「私たちの世代は、主権が変わった後に香港の自由と香港独自のスタイルを維持する方法を見出すのに必死だった」と述べる。
呉靄儀はこのようにも言っている。香港人は平和を愛する、規律を守る人たちだと。100万人を超える大規模なデモを平和裡に行なえるのだから。8月18日も雨が降る悪条件の中で、人々は「平和、理性、非暴力」を貫いた。キャリーラム行政長官はこの2日後、平和的なデモは市民と政府の間の対話を促進するプラスの効果があると述べている。平和的にデモを行うことがなぜ犯罪になるのか。
呉靄儀は陳述書をこう結んでいる。
「私は法曹界に遅れて入りましたが、法の支配のために奉仕してきました。法曹の聖人であるトーマス・モアは、王の意志に従うために法を曲げたくはないと、反逆罪で裁判にかけられました。よく知られている彼の有名な最後の言葉を少し変えさせてもらい、私はこう誓います。「私は法のしもべです。法は何よりも人に奉仕しなければならない。人が法に奉仕するのではありません」
このたび出版した『香港 国家安全維持法のインパクト 一国二制度における自由・民主主義・経済活動はどう変わるか』で、私は、香港の「法の支配」(rule of law)は中国式の「法治」(rule by law)に取って替わられつつあるという問題提起をした。このまま香港の一国二制度は骨抜きにされ、香港は中国に飲み込まれてしまうのか。呉靄儀が述べたように「人が法に奉仕する」時代が到来するのだろうか。私たちはこの本を編集するにあたり、読者が香港の変化をていねいに捉えられるよう、情報や視座を提供しようと心がけた。読者の皆様に、ぜひフィードバックをお寄せいただきたい。
阿古智子(あこ・ともこ 東京大学大学院総合文化研究科教授)
専門は現代中国論。著書に『貧者を喰らう国 中国格差社会からの警告〔増補新版〕』(新潮社、2014年)、共著に『超大国・中国のゆくえ5 勃興する「民」』(東京大学出版会、2016年)など。近著に『香港 あなたはどこへ向かうのか』(出版舎ジグ、2020年)。
国安法が日系企業に与える「漠然とした不安感」(増山健)
2020年6月末に香港国家安全維持法(以下「国安法」)が施行されてからというもの、日系企業からの不安に満ちた問い合わせに日常的に接している。筆者は、現在、香港現地の法律事務所に勤務し、主として日系企業の香港子会社に関連する相談や、香港企業と取引がある日系企業からの相談に対応しているが、雑談レベルも含めれば、ほぼすべての日系企業が、何らかの形で国安法についての不安や疑問を口にする。
国安法およびそれに引き続く中国政府・香港政府による香港の法制度改革についての評価は、日本での報道を見る限りでは、批判一辺倒のようである。西洋諸国や現代日本の普遍的価値観である自由や人権という観点からは、確かに無理もないと感じる。在香港日本国総領事館/日本貿易振興機構(ジェトロ)香港事務所/香港日本人商工会議所による「香港を取り巻くビジネス環境にかかるアンケート調査 第6回」(2021年1月25日付)によれば、香港に拠点を持つ日本企業のうち、54.4%が国安法に懸念を抱いているとのデータが出ている。
しかし、それだけ懸念が大きい一方で、香港から日本企業さらには外資企業が雪崩を打って撤退・縮小を始めているのかといえば、そんなことはない。上記アンケート調査によれば、国安法による「影響は生じていない」と回答したのが65.0%、さらに香港拠点の今後の活用方針についても「規模拡大」と「これまでと変わらない」の合計が50.4%にものぼるのである。筆者が現地で勤務している感覚としても、多くの企業は未だ様子見段階で、撤退・縮小を図る企業は、国安法というよりCOVID-19の流行や米中貿易摩擦の影響を受けている方が多いように思われる。
そのため、少なくとも、日系企業ビジネスへの直接的影響という点にしぼってみれば、(もちろん例外はあるものの)「実際の影響はまだ感じないが、内容がよくわからないので漠然とした不安がある」というのが大多数の感覚ではないだろうか。
そこで、そのような中で、あえて国安法に法律的な観点からの解説を試みたのが、本書『香港 国家安全維持法のインパクト』である。国安法施行に至るまでの逃亡犯条例改正問題にはじまり、実務への影響、香港基本法との関係や、大陸やマカオの国家安全関連法との比較等、非常に多角的な視点から分析を試みた。
特に、ビジネスマンとの関係では、第3部2の「香港国家安全維持法は実務にどう影響を与えるか」を是非参照されたい。私と同じく香港で勤務経験のある宇賀神崇弁護士が、言論活動・労務管理・インターネット利用への影響といった点を詳細に分析し、注意・対処すべき点はあるものの、ビジネスへの短期的影響は限定的であると論じている。
将来への影響を語るものである以上、現時点での答え合わせはできないが、筆者も宇賀神弁護士の意見に概ね賛同している。そもそも国安法は香港におけるビジネスを一網打尽にすることを目的とした法律ではないので、冷静に内容と運用を見極め、自社のビジネスモデルを改めてよく分析した上で、各論的にどのような影響を有り得るか、そのリスクへの対処は可能なのかを現実的に考えていくことが有用である。そして、おそらく多くのケースでは、少なくとも「国安法があるから香港のビジネスは直ちにやめるべき」という結論には至らないであろう。
しかし、筆者は、本書を手に取っていただいたビジネスマンの方には、上記箇所にとどまらず、一見するとビジネスに直接的関連がなさそうな、違憲審査や比較法といった箇所も是非一読されることをお勧めしたい。
ビジネスを海外で展開していく場合には、政治や市民生活といった側面が中長期的には影響を及ぼしてくることになる。選挙制度が変われば政策も変わるし、市民生活への懸念が悪化すれば人材流出にもつながる。当然ながら、政策や人材の有無といった点は、現地でビジネスを営む日系企業にも関係してくる。また、そもそも、現地で実際の事業を営む場合、現地で雇用される従業員やビジネスの相手となる現地人・企業の感覚を理解できなければ、長期的な成功を収めることは難しい。このような観点からも、国安法が多方面において持つ意義を考えることがのぞましい。本書がそのような作業の役に立つことを願ってやまない。
最後になるが、本書は、国安法が施行されてまだ運用基準も定まらない頃から執筆作業が始まったものであり、早すぎる現実の動きを必ずしも追い切れていない部分がある。そのような中で迅速に出版作業を進めてくださった日本評論社の方々に心より感謝を申し上げるとともに、最新の状況を踏まえた読者の皆様からの厳しくかつ暖かいご意見を賜れれば幸甚である。
増山健(ますやま・けん 日本法弁護士)
専門は香港法務、知財法。在香港日系企業からの相談や香港企業の対日投資相談に従事。香港中文大学法学修士へ留学中、大学が抗争の現場に。主論文に「フラダンス振付けの著作物性事件」著作権研究46号(2020年)178-194頁。
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廣江倫子・阿古智子 編『香港 国家安全維持法のインパクト』