『高齢者うつを治す:「身体性」の病に薬は不可欠』(著:上田諭)

一冊散策| 2021.06.22
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

 

 

はじめに

若い頃から人生を堅実に大過なく暮らしてきた高齢の人が、あるときから憂うつになり、元気がなくなる。特別なことがあったわけでもないのに、どうしてやる気や興味がこんなにも湧かなくなったのか。気持ちも身体も落ち着かず、なんとも言えずつらい――それが典型的な高齢者うつという病気の始まりである。

私は精神科の医師になって約25年の間、高齢のうつの人たちをたくさん診てきた。忘れられないのは、うつになった人の言葉だ。精神科の有名な大学教授に半年かかってもよくなる兆しがなかった女性は、「この歳になって、どうしてこんな苦しみを味わわなくてはいけないのか」と暗い表情で嘆いた。中年期に胃がんの手術をするなどいくつも病気を乗り越えた女性は、高齢になってうつにかかり改善したあと、「どんな病気より、うつだけにはもうなりたくない。あんなつらいことはない」と訴えた。

高齢者のうつには、心身のつらさと苦しさが伴う。それは、言いようのないほどの、という形容が一番当てはまる。周囲の人々には、そのつらさはなかなか伝わりにくい。本人のつらさには孤独も加わることになる。私たち精神科の医師は力を振り絞って、このつらさから高齢の人を救い出す責任がある。

ところが、高齢者うつには多くの誤解がつきまとっている。一般の人たちだけでなく、医師の間にも、である。トシなのだから多少元気がなくてもふつうだ、これからボケていく前兆なのだからしょうがない、ひどくなければ元気がなくてもたいしたことはない、高齢者の病気は治らなくても仕方ない。あからさまに口にする人はいないだろうが、そういう意識が、かすかでも人々や医師の気持ちのなかに入り込んではいないか。総人口の3割近く、28.7%が高齢者という(2020年総務省推計)超高齢社会のこの時代に、何たることであろうか。

たしかに、身体のさまざまな病で長く床に臥せる生活を強いられる人たち、加齢による身体疲弊や筋力低下の影響から自由な活動がままならない人たちも少なくないだろう。しかし一方、70代にして毎日のように仲間とテニスやボーリングを楽しみ、80代にして自営業や会社経営の一線で働き、90代にして毎月のように遠出の旅行を楽しんでいる、そんな人たちも決して珍しくはない。

医療が高齢者を弱者とみる、衰えともろさをもった人々としてみるのは、ある意味当然であろう。しかし、高齢者を過度に弱い存在とみることは間違っていると思う。いったん病気になっても、生き生きした健康状態に回復できる可能性が十分あることを私たちは忘れてはいけない。その底力を、現代の高齢者の多くはもっているのではないか。高齢者の治療にあたる者に欠かせない条件の一つは、健康で活発なときの相手の姿を想像できる能力である。

この本が伝えたい一番のメッセージは、高齢者うつは基本的に治る病気だ、ということである。すべての人が治るとは言えないが、8~9割の人はよくなる。

治す方法の第一は、薬の服用である。「心の病になぜ薬が最重要なのか」と不審に思われる方もいるだろう。それは高齢者うつが、心の病というより身体の病というべき病気だからである。「身体性うつ」と分類したのはそのためだ。

ただし、本書に示した薬を中心とする治療法は、世界の研究をもとにした日本うつ病学会の「高齢者治療ガイドライン」に即したものではない。ガイドラインの結論を要すれば、「最良の治療法がこれだとは決められない」というものであるが、本書では私が最良と考える具体的な方法をはっきり書いた。あくまで私が信じ実践する最良であることをご承知いただきたい。

本書によって、高齢者うつに対する正しい理解が進み、うつを患った人が少しでも早く癒しの道を見出されることを心から願う。

序章 高齢者のうつに多い誤解

うつになると、気分が憂うつになり、好きなことにも興味が湧かなくなり、多くのことにやる気がなくなる。多くの場合は、食欲も落ち、眠りづらくなり、体調も芳しくないと感じられる――うつという状態に対する一般の人の理解であろう。

この状態が軽ければ、数日~1週間ほどで元気を取り戻せることがある。それはいわば「正常範囲のうつ」と言っていい。いやなことやショックなことがあれば、誰でもこのうつの状態になることがある。むしろそれは自然なことだ。医師に診てもらう必要もない。

状態がある程度を超えると、自力では回復できなくなる。2週間も3週間も元気のない状態が続けば、本人もつらく、生活に支障が出て、周囲からも変だと気づかれる。「病的なうつ」である。医師に診てもらったほうがいいのではないかと多くの人は感じ始める。

こうした見方や体験は、多くの人に共通していることであろう。

ところが、高齢者のうつの見方やとらえ方には誤解が多い。これは一般の人だけでなく、医師にもいえることである。高齢であるという事実とイメージが、周囲の人に誤った見方をさせてしまう。

うつになった本人やその周囲の人々に誤解があることは、早期の治療と回復の妨げとなりかねない。誤解を改め、本当のうつの姿というものを理解してもらいたい。それが、万一自分や家族がうつにかかったときの良き道しるべになるはずである。

実は、うつに関する概念自体が、精神科診療のなかでは確定せず、揺れ動いているという事情もある。これについては第4章で触れたい。

誤解1 精神的ストレスでうつになる→精神的ストレス以外の要因が中心である

高齢者に限らず、これはうつにまつわる誤解の最たるものであろう。精神的ストレスが大きいためにうつになる、とおそらく世の中の大方の人が信じている。

たしかに、それは若年者(高齢者でない成人の人をこう呼ぶことにする)であれば、当てはまる事実である。仕事上でも、人付き合いでも、家族内でも、苦しいこと、悲しい知らせ、いやな体験など、精神的ストレスはさまざまである。それがささいで小さなストレスなら、うつにまではならないが、対処に困るような大きめのストレスに襲われれば、うつになりやすい。

しかし、高齢者のうつにはあまり当てはまらない。高齢者でも大きなストレスによってうつになる人はいるが、それは決して多くない。高齢者のうつの多くはストレス(またはその大きさ)によって起こるのではない。高齢者は、ストレスがまったくなくてもうつになる。または、取るに足らないと思えるようなストレスでもひどいうつになってしまう。高齢者のうつを生じさせる要因は他にあるのである。ただ、それが何であるかは、脳に原因があるというだけで、いまだ確かなことはわかっていない。詳しくは次章で述べるが、それが高齢者のうつというものなのである(実は、若年者のうつも一定数はそうである)。

主に若年者が精神的ストレスでうつになる、というとき、性格とか耐性というものの個人差が問題になる。心配事や悩み事を気にしがちな性格の人と、あまり気にせずすぐに忘れられる性格の人では、同じストレスに遭遇しても、うつになるかどうかの反応が違うだろうということは容易に想像がつく。耐性すなわち「厳しい環境をこらえ、耐える能力」という点でもそうである。ストレス耐性、不安耐性という言葉がある。これらの耐性をもつ人とは、ストレスや不安に強い人のことである。その強さの程度によって、うつになるかならないかは変わるだろう。強いストレス耐性の持ち主なら、疲れ果てるような仕事や上司からの重圧や悲嘆に暮れる別れに出会っても、うまく受け流してうつになることなどないかもしれない。個人差が大きいのである。

若年者は、人生のいまだ初心者、中堅というところである。喜ばしいものでも辛苦に満ちたものでも、人生経験は少ないか十分ではない。未熟で経験の浅い人は、社会で出会う多種の精神的ストレスに悩み苦しんでも当然であろう。さらに若いときの人生はたいがい波乱に富む。仕事、恋愛、配偶者や子らとの家族関係、趣味、さまざまな局面に精神的ストレスの種がある。若年者が精神的ストレスからうつになることが多いというのも、むしろ当然であろう。

それに対して、高齢者は人生の熟練者、ベテランである。たくさんの喜び・幸福とともに、人生の多くの辛酸もまた味わっている。積み重ねた経験によって知恵と寛容も身についている。個人差はもちろんあるが、苦難への耐性、適応能力は若年者より高いと言っていいだろう。さらには、その人を取り囲むストレスの原因も若年時より一般的には減っている。仕事は大半の人が退職か引退後、恋愛はほぼ卒業(そうでない人もいるが)、子どもや孫は巣立って家族間の問題に悩まされる事態も少ない。

もちろん、増えるストレスもなくはない。よく言われるのはさまざまな「喪失」である。高齢者は、親しい人を失い、健康を失い、社会的役割を失う、とよく言われる。たしかに、連れ合いや友は旅立ち、身体のあちこちに不調が生じ、会社や地域での役割からも離れていく。しかしそれらは、高齢者の誰にでも遅かれ早かれ訪れる普遍的な事柄である。特別にたび重なって降りかかったり、思いもかけず突発的に起きたりするのを別として、通常はそれらがうつを呼び起こすストレスになることなど少ないはずである。

つまり、高齢者が多少のストレスごときでうつなどという病気になることは少ない、ということだ。こうした単純なことではなく、原因はいまだ「なぞのなか」なのである。……

続きは本書でご覧ください!

目次

序章 高齢者のうつに多い誤解

第1章 高齢者のうつは「身体性うつ」
うつには「三つのうつ」がある/1.身体疾患で生じるうつ状態/2.薬でなければ治らない「身体性うつ」/身体性うつの治療法/身体性うつの三つの型/3.現実の悩みが生む心理性うつ/心理性うつの治療法

第2章 家族や周囲の人ができること――うつの人への接し方、医師へのかかり方/高齢者うつの人への接し方/精神科のよいかかり方

第3章 高齢者うつと認知症
うつによる物忘れ――にせ認知症/認知症のうつは周囲のかかわり方で治る/高齢者うつは認知症に移行するか

第4章 うつをめぐる精神科診療の混乱
うつの二分論――内因性と神経症性/二分論から単一論へ――世界の潮流/単一論の波が日本にも――うつ急増を招く/「本来のうつ」を見失う――うつ激増の弊害

第5章 高齢者うつの具体的な治療法 ①薬物療法
6割の人に効果のある抗うつ薬/残り4割の人に対する薬/追加して効果増強を図る薬/「焦燥型」の強い症状に対する薬

第6章 高齢者うつの具体的な治療法 ②通電療法
通電療法とは/通電療法の手順/通電療法の副作用/通電用量設定の重要性/改善を維持するために

参考文献/おわりに

書籍情報

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