(第38回)この判決をどのように理解して伝えるべきか(矢野昌浩)
【判例時報社提供】
(毎月1回掲載予定)
三菱樹脂本採用拒否上告審事件
1 憲法19条、14条と私人相互間の関係
2 特定の思想、信条を有することを理由とする雇入れの拒否は許されるか
3 雇入れと労働基準法3条
4 企業者が労働者の雇入れにあたりその思想、信条を調査することは許されるか
5 特定の信条を有することを解雇の理由として定めることと労働基準法3条
6 試用期間中に企業者が管理職要員として不適格であると認めたときは解約できる旨の特約に基づく留保解約権の行使が許される場合─三菱樹脂本採用拒否事件上告審判決最高裁判所昭和48年12月12日大法廷判決
【判例時報724号18頁掲載】
この判決を知ったのは、大学生のときの労働法の授業においてであった。あのときのざらざらとした気持ちは忘れがたい。最初に職を得た大学では、1年次の演習で具体的な事件を素材にしたディベートをとりいれた授業を行っていたが、この事件はかならずとりあげていた。会社が本採用拒否の理由とする事実の秘匿について、そもそも秘匿があったといえるのか、さらに秘匿したとされる事実自体があったのか、それらが本採用拒否の合理的な理由となるのかを、学生たちはほぼいつも中心的な争点とした。これはこの事件の仮処分決定や本案第一審判決による解決の仕方と同じである。私は学生たちの鋭敏さに感嘆しながらも、そもそも思想、信条にかかわる事柄を申告させることはできるのかと、授業の最後に発言するのもつねであった。
原判決では、思想、信条にかかわる事実の申告を求められても、秘匿するのは許されるべきであり、虚偽の申告をした場合でも解雇はできないとされ、憲法の人権保障を根拠にその理由づけが行われた。会社側は上告し、兼子一・我妻栄・宮沢俊義各氏の意見書を提出して、最高裁は事件を大法廷に回付した。こうして人権の私人間効力を否定しつつ、憲法22条・29条等を根拠とする経済活動の自由の一環として、企業者の採用の自由を説く判決が出されたのはよく知られている。また、労基法3条は採用後の労働条件に関する差別禁止規定であるとされ、採用そのものに適用されることが否定された。
この大法廷判決は裁判官全員一致によるものであったが、学説からの批判を集めるとともに、多くの学者の研究に影響を与えた。人権の私人間効力論はその最たるものであろうが、大学院生のときに研究会または集中講義の講師に来ていただいたあるお二人の先生からは、営業の自由とはなにか、法人に人権はあるのかといったご自身の問題提起がこの事件とのかかわりから生まれたというお話を伺うことができた。いまでは実務でも採用段階での思想調査を行ってはならないとしている(平成11年労働省告示第141号)。プライバシー保護の観点からは当然であろう。我妻意見書は企業には従業員の思想・信条の統一化により能率を高めて活動する自由があると主張したが、その後の裁判例はむしろ企業にはさまざまな思想・信条をもつ労働者が存在することを当然の前提として、企業内での労働者の精神的自由が十分尊重されるべきであるとする(最近の裁判例として、フジ住宅事件・大阪地裁堺支部令和2年7月2日判決)。大法廷判決では企業における雇用関係が継続的な人間関係として相互信頼を要請し、それは終身雇用制によって増長されることが強調されたが、この要請といえども差別禁止やプライバシー保護、さらにはその根底にある個人の尊厳といった価値観によって調整・制約されるべきものであり、大法廷判決の主要部分を維持し続けることは難しいと考える。
『石流れ木の葉沈む日々に:三菱樹脂・高野事件の記録』(1977年)は、出版社(旬報社)のサイトで現在自由に閲覧できる。同書を開くと司法反動という言葉がたびたび登場してきて、当時の時代状況が伝わってくる。戦争の記憶が人々の間に生々しく残っていることもわかる。なによりも、おそらく軽々な憶測で企業外に排除された理不尽さ、そこから復職するまでの道程の険しさ、それを支えた労働組合を中心とする運動の社会的な広がりが強い印象を残す。事件が起きたのは60年ほど前であり、大法廷判決が出されて半世紀が経過しようとしている。日本社会はたしかに大きく変わったが、労使関係における民主主義と人権の実現が重要であることには変わりがない。この判決をどのように理解して伝えることができるかは、私にとってはいまなお課題となっている。
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1962年生まれ。琉球大学法文学部助手、同講師、同助教授、同教授、龍谷大学法学部教授を経て、現職。
著書に、『労働契約の理論 講座労働法の再生 第2巻』(共著、日本評論社、2017年)、『雇用社会の危機と労働・社会保障の展望』 (共著、日本評論社、2017年)、『常態化する失業と労働・社会保障』(共著、日本評論社、2014年)、『労働者派遣と法』(共著、日本評論社、2013年)、『新版 労働法重要判例を読む 1・2』(共著、日本評論社、2013年)など。