日本社会の安全安心のために決定的に欠けているもの:「組織罰」という考え方(安原浩)

2021.08.03

最近、安全安心という言葉がしきりにマスコミに登場します。いうまでもなくコロナ対策やオリンピック関連で使われています。

この言葉の意味としては、人の生命、身体、財産を脅かすすべての事象から人を守るための諸対策、諸制度が目指す目標ともいえるでしょう。

しかし、安全安心を目指すといいながら、その対策や新制度の中身に具体性がない、あるいは実効性がないと、その言葉ば空疎に聞こえます。

人の生命などを脅かす事象には、疫病、事件(故意の犯罪等)、事故(過失による犯罪等)、自然災害など無数にあり、その対策は千差万別といえ、さらに社会の進展に伴い発生する新たな態様の事象に対応することも考える必要があります。

そのため安全安心を抽象的一般的に論じることは難く、ここでは鉄道事故、航空機事故、自動車事故、工場事故など人の行為が関係して発生する事故対策について考えてみたいと思います。

安全整備投資を後回しにする企業

このような事故の抑止には、安全設備への投資といったハード面の対策及び従業員の教育、マニュアルの作成等といったソフト面の対策などが考えられます。特に大規模かつ悲惨な事故が発生する可能性のある現場では、複雑かつ高度な技術が駆使されているため僅かなミスが重大な結果に結びつくことになります。そのような事故の発生を抑止するためには、膨大な安全設備への投資、人的資源に対する投資が不可欠になります。

企業にとってこのような投資は直接利益に結びつく訳ではありませんから、できれば極小化したい、場合によっては将来に先延ばしたいと考えることはごく自然でしょう。

しかしながら、ことは人の生命にかかわることですから、それでは済まないことも当然です。このような場合に企業に安全投資を動機付けるにどうしたら良いのでしょうか。安全安心を呼びかけ、誠意ある対応を求めることだけでは足りないことは自明です。

そこで登場するのが組織罰という考え方です。つまり安全対策を怠って重大事故を発生させた企業・団体に対し厳しい刑罰を課すことによって、企業・団体に対し将来の事故発生を抑止するための安全投資をいわば事実上強制しようとする考え方です。たとえば危険運転致傷罪の創設により、あおり運転や飲酒運転が減少したことにならう新制度ともいえます。

このような企業・団体に安全投資を促す法制度は欧米ではすでに一般的となっています。もちろん国によって制度の中身は異なりますが、英米独仏、カナダ、オーストリアなどの国では、個人のみならず原則として組織体に対しも全ての犯罪について処罰対象とし、そのなかに安全管理を怠った企業。団体が事故を発生させた場合に厳罰を課す制度が設けられています。

この場合の罰則としては、上限のない高額の罰金、コンプライアンスプログラムの実施命令、事業差止命令などが定められています。

悲惨な事故発生を事前抑止するために

これに対してわが国はどうでしょうか。そもそも刑法は法人を処罰対象と考えていません。法人には自然人のような責任能力がないと考えられているからです。すなわち、そもそも法律上人と擬制されているとはいえ、法人がミスをしないように注意する緊張感を持つことや、ミスの結果を反省する感情を持つことなどは無いと考えるからです。

その結果、例えばJR福知山線脱線事故では当時の鉄道本部長や歴代社長らが過失のあった個人として起訴されましたが、個人が事故発生を具体的に予見することは困難であったとしていずれも無罪となりました。

しかしながら、大きな事故発生は個人の責任というより企業という組織体が責任を負うべき場合が多いと思われます。

そして、わが国では、法人の刑事責任を問うためには刑法ではなく特別法の制定が必要になります。実は、そのような特別法がすでに無数にあります。

事故関連の代表的な法律としては、「人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律」(いわゆる公害罪法)があります。これは従業員の故意・過失によって公害を発生させた場合には行為者のほか法人・雇い主にも罰金を課する(両罰規定といいます)という法律です。しかしながらその罰金額の上限はせいぜい500万円に過ぎません。とても企業に安全投資を促す動機となる額ではありません。少し事例が違いますが、電通社員だった髙橋まつりさんが過労自殺した事件について、労働基準法違反の両罰規定で起訴された会社に対する罰金額はわずか50万円でした。これでは刑罰の効果がないといっても過言ではありません。

日本の企業は、会社の責任で発生したというべき事故について、その責任を厳しく問われないという意味で、甘やかされているのです。

そのため、企業の安全管理の不備から悲惨な事故を発生させても、なかなか十分な対策はとられず、重大事故を再発させる危険性が残ってしまう、という怖い状態がわが国では続いているのです。

これが表題の「日本社会の安全安心のために決定的に欠けているもの」の意味になります。

かつて、藤木英雄東大教授(故人)は、次のように主張されました。

科学技術の成果のもたらす大きな災害事故、交通事故、産業廃棄物による公害、工場等の爆発事故、建築事故、さらには医療事故、薬品や食品の事故など、各種の災害事故という災厄を防止するために、(中略)事前規制の網をくぐって発生する現実の危害に対しては、将来を戒めるという趣旨で、刑罰を用いることも必要である。(中略)(刑法の過失犯関する規定は)単なる個人行動ではなく、システム化され組織化された活動として行われる企業活動のもつ破壊力から共同生活の安全を守る、ひとつの重要な手段としての役割を担わされることになったのである。

藤木英雄編著『過失犯──新旧過失論争』(学陽書房、1975年)13-14頁

高度に発展した日本社会には一触即発の危険が潜在しています。悲惨な事故発生を事前抑止するためには、企業・団体に安全投資を否応なく促す組織罰制度の創設が必須といえます。

組織罰を実現する会ウェブサイト

安原浩(やすはら・ひろし 弁護士)
兵庫県生まれ。元裁判官(2008年退官)。組織罰を実現する会顧問。日本刑法学会会員。