(第2回)日本近現代史における「日本」の範囲(大日方純夫)

おさらい日本の近現代史―「日本」と東アジアの関係を読み解くために| 2021.09.29
日本の近代・現代とはどのようなものだったのでしょうか。
私たちが今、日々ニュースで接する日本の社会状況や外交政策を、そのような歴史的視点で捉えると、いろいろなものが見えてきます。
この連載では、「日本」と東アジア諸国との関係を中心に、各時代の象徴的な事件などを取り上げ、さまざまな資料の分析はもちろん、過去の事実を多面的に捉えようとする歴史研究の蓄積をふまえて解説していただきます。
現在の日本を作り上げた日本の近現代史を、もう一度おさらいしてみませんか。

(毎月下旬更新予定)

1 近代国家の成立と「日本」の範囲

前回(第1回 歴史とは何か)は、「日本の近現代史」の「史」について考えた。今回は「日本」についてである。

私たちは何気なく「日本」と言う。では、どこまでが「日本」なのか。島国だから、境界がはっきりしているように思える。しかし、果たしてそれほど自明なのか。

「日本」の北。たしかに北海道が「日本」であることは疑いないようにみえる。しかし、近世の時期(江戸時代)、北海道は「北海道」ではなく、「蝦夷地」(南部の和人地以北の地域)と呼ばれ、幕府から特権を与えられた松前藩がアイヌを支配していた。アイヌが住む地域は、幕府の支配が直接には及ばない「異域」と考えられていた。ただし、18世紀末から19世紀初め、ロシアの南下にともない幕府は直轄地に編入した(その後、松前藩に還付、さらに幕府が再直轄)。

では、南はどうか。近世、そこには幕府の支配が直接には及ばない琉球王国があった。「異国」である。15世紀はじめに誕生したこの小王国は、中国に臣下の礼をつくして保護をうけ、朝貢貿易を展開していた。1609(慶長14)年、薩摩藩が琉球を武力侵攻して制圧し、服従を誓わせた。こうして琉球王国は薩摩藩の支配下に組み込まれたが、薩摩藩は中国貿易の利益を手にいれるため、琉球と中国との関係はこれまで通りとした。このため、近代初めまで、琉球王国は一方で島津氏の支配を受けながら、他方、中国に服属して保護を受ける関係をつづけていた。

このコンテンツを閲覧するにはログインが必要です。→ . 会員登録(無料)はお済みですか? 会員について

大日方純夫(おびなた・すみお)
早稲田大学名誉教授、専門は日本近現代史。
主著に、『警察の社会史』(岩波新書、1993年)、『未来をひらく歴史:東アジア3国の近現代史』(共著、高文研、2005年、日本ジャーナリスト会議特別賞受賞)、『新しい東アジアの近現代史:未来をひらく歴史(上)(下)』(共著、日本評論社、2012年)、『「主権国家」成立の内と外』(吉川弘文館、2016年)、『日本近現代史を読む 増補改訂版』(共著、新日本出版社、2019年)、『世界の中の近代日本と東アジア』(吉川弘文堂、2021年)など。