(第5回)東アジアのなかの日清戦争(大日方純夫)

おさらい日本の近現代史―「日本」と東アジアの関係を読み解くために| 2021.12.21
日本の近代・現代とはどのようなものだったのでしょうか。
私たちが今、日々ニュースで接する日本の社会状況や外交政策を、そのような歴史的視点で捉えると、いろいろなものが見えてきます。
この連載では、「日本」と東アジア諸国との関係を中心に、各時代の象徴的な事件などを取り上げ、さまざまな資料の分析はもちろん、過去の事実を多面的に捉えようとする歴史研究の蓄積をふまえて解説していただきます。
現在の日本を作り上げた日本の近現代史を、もう一度おさらいしてみませんか。

(毎月下旬更新予定)

今回は、日清戦争について、最新の研究成果にもとづいて、高校教科書『詳説日本史』(改訂版、山川出版社、2018年)の叙述を確認しながら、おさらいしてみることにしよう。

1 なぜ日本は朝鮮に出兵したのか

『詳説日本史』は、日清戦争の前提に関して、つぎのように書いている。

朝鮮で東学の信徒を中心に減税と排日を要求する農民の反乱(甲午農民戦争、東学の乱)がおこると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵するとともに、天津条約に従ってこれを日本に通知し、日本もこれに対抗して出兵した。

この叙述によれば、

<甲午農民戦争→朝鮮政府の清への出兵要請→清の出兵と日本への通知→日本の対抗出兵>

という流れになる。つまり、日本は、清の通告を受け、天津条約にもとづいて出兵したことになる。では、実際はどうだったのか、詳しく見てみよう。

1894年2月、全羅道古阜で農民が地方官吏の悪政に反対して立ち上がった。蜂起は一時収まったが、4月末、再度蜂起して勢力を拡大し、6~7000人にふくれあがった。農民軍は鎮圧のために出動した政府軍と戦闘を繰り広げ、5月末、全羅道の都、全州を占領するに至った。甲午農民戦争である。朝鮮政府は農民たちの闘いを押さえることができず、6月3日、清に出兵を求めた。

日本政府は東学農民軍と朝鮮政府の動向に関する情報を収集し、出兵の機をうかがっていた。そして、6月2日、公使館・領事館と在留邦人の保護を目的として朝鮮に出兵することを決定した。5日、戦争指導部である大本営を設置し、相互の事前通告を規定した天津条約にもとづいて朝鮮に出兵することを清に通告して、居留民保護には相応しない大規模な部隊を派遣した。7日には清からも日本に対し正式の出兵通告があった。日本は翌日、先遣隊を送り出し、10日には陸戦隊が漢城(現ソウル)に入り、12日には混成旅団の先頭部隊が仁川に到着した。一方、清軍の第一次派遣隊は10日までに朝鮮に上陸し、牙山を中心とする忠清道一帯に駐屯した。

しかし、農民軍は10日、政府軍と和約を結んで撤退を開始した。日清両軍の介入に危機感を抱き、また、農繁期が近づいて農民軍の戦意が低下したためという。農民軍の撤退をうけ、朝鮮政府は日清両国に撤退を求めた。12日には共同撤兵のための交渉が始まった。

この農民軍と政府軍との和約後の日清両国の動向について、『詳説日本史』は、「農民軍はこれをみて急ぎ朝鮮政府と和解したが、日清両国は朝鮮の内政改革をめぐって対立を深め、交戦状態に入った。」と書いている。事実関係はどうなっていたのか、詳しく見てみよう。

このコンテンツを閲覧するにはログインが必要です。→ . 会員登録(無料)はお済みですか? 会員について

大日方純夫(おびなた・すみお)
早稲田大学名誉教授、専門は日本近現代史。
主著に、『警察の社会史』(岩波新書、1993年)、『未来をひらく歴史:東アジア3国の近現代史』(共著、高文研、2005年、日本ジャーナリスト会議特別賞受賞)、『新しい東アジアの近現代史:未来をひらく歴史(上)(下)』(共著、日本評論社、2012年)、『「主権国家」成立の内と外』(吉川弘文館、2016年)、『日本近現代史を読む 増補改訂版』(共著、新日本出版社、2019年)、『世界の中の近代日本と東アジア』(吉川弘文堂、2021年)など。