(第44回)裁判官の事実認定と憲法保障─「二段の推定」法理?の慎重な適用を希求して(川嶋四郎)
【判例時報社提供】
(毎月1回掲載予定)
「二段の推定」法理関係判決
私文書の作成名義人の印影が当該名義人の印章によつて顕出された場合と文書の真正の推定
最高裁判所昭和39年5月12日第三小法廷判決
【判例時報376号27頁掲載】
民事訴訟は、財産権(憲法29条1項)の保障に関わる。裁判所も、統治機構の一翼を担うものであることから、財産権を侵すことは許されない。これは、財産権をめぐる民事訴訟において、裁判官が個別具体的な事案で事実認定および法適用を行う際の憲法的要請である。
ここで取り上げる「心に残る裁判例」は、気にかかるという意味で心にとどまる判例である。それが、いわゆる「二段の推定」の一段目の判例として、その後頻繁に用いられることになる本判決である。「二段の推定」とは、私文書成立の真正(作成名義人の意思に基づいて作成されたこと)に関する推定であり、①印章の印影の一致から②本人等の意思に基づく押印を推定し、③私文書の成立の真正を推定することを言い、②→③の推定は、民事訴訟法228条4項が規定するので、①→②の推定を確認的に判示したのが、本判決である。
本判決の「判例時報」上の目次タイトルは、慎重にも上記のとおりであるが、「最高裁判所民事判決集(民集)」の「判決要旨」は、「私文書の作成名義人の印影が当該名義人の印章によって顕出されたものであるときは、反証のないかぎり、該印影は本人の意思に基づいて顕出されたものと事実上推定するのを相当とするから、民訴法第326条〔現228条4項〕)により、該文書が真正に成立したものと推定すべきである。」とまとめられている。
この判決は、裁判所において、これまで「二段の推定」として頻繁に引用されてきたが、その含意は、実のところ次の二点に存在した。すなわち、一方で、判旨前段(本人等の押印とは、該捺印が、本人等の意思に基づいて真正に成立したことをいうこと)は、解釈判例であり、「法文の表現上も明確を欠き、実務上も往々にして誤って解釈され勝ちであった民訴326条〔現228条4項〕の解釈に関する最高裁としての初めての判例として、是非とも判例集に登載しなければならない」ものであったが、他方で、判旨後段(該印影が本人等の印章により顕出された事実が確定された場合には、反証がない限り、該印影は本人等の意思に基づいて成立したものと推定するのが相当であり、その結果、民訴326条〔現228条4項〕により、その全体が真正に成立したものと推定されること)は、経験則に関する判例であった。それは、「経験法則に関する、しかも自明の経験法則に関するものであるから、ことさらに判決要旨として摘出しないのが一般の取扱いである。しかし、前段の判示の要旨と一括して掲げるのであれば邪魔にならないし、また、そのような要旨の表現とすることによって、具体的事案に民訴326条〔現228条4項〕を適用する仕方も浮び上ってくるという実務への配慮もあって、前掲のような要旨の表現となったもの」であるとの解説が、最高裁判所調査官の坂井芳雄判事によって加えられていた(坂井芳雄「印影の同一と文書の成立の推定(2・完)─最高裁判例の受け取り方」判時429号4頁〔1966年〕)。
これは、異例の解説ではないかと思われる。なぜなら、既に最高裁判所調査官の蕪山巌判事によって、本件判例解説が公表されていたからである(蕪山厳「判例解説」『最高裁判所判例解説・民事篇〔昭和39年度〕』111頁〔法曹会、1965年〕参照)。
本判決が言い渡された昭和39年〔1964年〕は、戦後高度経済成長のまっただ中であり、東京オリンピックが開催された記念すべき年でもあった。また、訴訟法的には、手形・小切手訴訟制度が採用された年でもあった。当時、民事裁判の法廷を悩ましていたのは、書証の成立の否認の問題であり、手形訴訟との関係では、手形の成立否認が制度の存続を危うくしかねないといった課題が存在した。そのような時期に登場したこの判例は、望外の効用を発揮することになったのである。
それでは、なぜ坂井判事が、本判決の言渡しから一年半後のこの時期に、敢えて判例時報誌上に、その論攷を寄稿したのかを考える必要がある。それは、ひとえに、脆弱な経験則関係の判例の部分が最判として抽象化された要旨の形で一般に流布することによって、あたかもそのような証拠法則規定が制定されたのと同様の事実上の作用を営み、裁判官が過度に依拠するような民事実務を招来しかねないことに対する警鐘を鳴らす使命感によるものではないかと思われる。その経験則は、他人が本人の印章を勝手に用いることは通常考えられないといった経験則に基づく推定にすぎず、多くの例外を有し、私文書の成立が争われ訴訟になったこと自体が既に印章盗用等を疑わせるとも考えられるからである。
しかし、坂井判事の危惧は顕在化しているように思われる。たとえば盗用可能性や冒用等が認められる事案等の反証成功事例は報告されているものの、本判決によって、一段目の推定が法定証拠化したような観もなくはない。しかも、驚くべきことに、裁判官の中から、署名代理とされる事案で本人の印章の印影の存在を、署名代理の代理権の授権とさえ評価する見解(井上泰人「文書の真正な成立と署名代理形式で作成された処分証書の取扱いに関する一試論」判タ939号21頁〔1997年〕)まで提唱されたのである。本人以外の者が押印できる印章の印影の存在が、代理権の授与までをも事実上推定させることは、自由心証主義をより空洞化させるだけではなく、要件事実論さえ掘り崩しかねないのである(なお、蕪山調査官は、「二段の推定」という措辞ではなく、「二重の推定」という表現を用いている。これは、一つの経験則を二重に用いることになる点を的確に表現している。そのこと自体、深読みすれば本判決の読解における留意点ともとれるのである)。
かねてから、学説上は、「二段の推定」に対しては、文書の真正の推定を超え要証事実の推定までをも招来させてしまうとして「三段の推定」であるなどといった批判的な評価さえ見られ、また、最高裁判所の『民事訴訟における事実認定』(司法研究報告書59輯1号〔2007年〕)は、随所で、「二段の推定」への安易な依拠に対する警告を発しているのである。これは、いわば本判決における「附(つけたり)」的な要旨(判旨後段)の部分が、要旨本体(判旨前段)に取って代わり一人歩きしたかのごとき観を呈している現状に対する自省自戒の弁でもある。
「金融機関は人にではなくハンコにお金を貸す」とまで言われたことがある。バブル期の前後を問わず、金融関係事件等の現場で、どれだけ「二段の推定」に起因する犠牲者を生み出してきたかは分からない。近時、コロナ禍の後押しもあり、ようやく押印廃止の動きが生じている。それは、自署の価値と必要不可避性をクローズアップする。署名代理等といった自家撞着の手続が公然と行われ記名押印の実務も幅を利かせている現在の日本で、既に明治初期の太政官布告第50号(明治10年〔1877年〕7月7日)で命じられていた證書への自署(+実印の押印)の義務化の趣旨に、今一度回帰すべきであろう(ただし、当時は、大蔵省や銀行からの適用除外要請が通ることになった。今後は、押印制度自体の廃止と、「二段の推定」法理の廃棄が望まれる)。
金融被害が、司法過程を通じてさえ法的に救済されない事件をいくつか垣間見てきた市井の一研究者が現在願うのは、ただ現場の裁判官が、本判決の含意を今一度理解し直し、自由心証主義を実質化させ、金融被害からの法的救済を図り、財産権の保障を貫徹することを願うことだけである(川嶋四郎『民事訴訟法概説〔第3版〕』298頁〔弘文堂、2019年〕参照)。半世紀以上前、最高裁判例解説が既に公刊されているにもかかわらず敢えて判例時報誌に上記論攷を寄稿した故坂井判事の思い、すなわち裁判官の「良心」(憲法76条3項)を、まさに現時において、私文書の真正が争われる事件で汲み上げてほしいのである。
心に残る判例として、今回、未だに深く気にかかる判例を取り上げたのは、「法的救済の殿堂」(川嶋四郎『民事訴訟法』12頁〔日本評論社、2013年〕)としての日本の裁判所に強く期待を抱くからにほかならない(より詳しくは、川嶋四郎「民事訴訟における私文書の成立の真正に関する『二段の推定』についての覚書」『現代民事手続法の課題〔春日偉知郎先生古稀記念〕』53頁〔信山社、2019 年〕を参照)。
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同志社大学法学部・大学院法学研究科、教授。
九州大学大学院法学研究院教授を経て、2008年から現職。著書に、本文中に掲げたもののほかに、『差止救済過程の近未来展望』(日本評論社、2006年)、『日本人と裁判』(法律文化社、2010年)、『公共訴訟の救済法理』(有斐閣、2016年)、『民事訴訟の簡易救済法理』(弘文堂、2020年)、『民事裁判ICT化論の歴史的展開』(共著、日本評論社、2021年)等