『学問としての教育学』刊行記念 著者インタビュー

きになる本から| 2022.03.03
学問としての教育学』の刊行を記念して、著者の苫野一徳さんに、本書にこめた思い、本書の読み方・使い方、教育の未来などについて、インタビュー形式で語っていただきました。

教育哲学とは

――今日はよろしくお願いします。まず、苫野さんのご専門である教育哲学について、それがどういった分野なのか、そのなかでご自身はどんな探究をしてこられたのか、教えてください。

はい。私はいつも、哲学というのはものごとの本質を徹底的に考え抜いて解き明かすことで、それにまつわる問題を解くための原理を提示するものだ、と説明しています。ひと言で言えば、「本質洞察に基づく原理の提示」。教育哲学について言うと、そもそも教育とは何なのか、どうあれば「よい」と言えるのか、その一番の根本、本質を洞察したうえで、そのような教育はいかに可能かという考え方を出していく、それが本来の役割です。

ただじつは、そのようなテーマは長いあいだ、まともに探究されてこなかったんですよね。でも私自身はそれがもっとも大事な問題だと考えていて、フッサールの現象学を思考の方法にして、さらにヘーゲルの洞察を導入することで、公教育の本質や、その正当性の原理を解明するという仕事をしてきました。

――そのような問題関心に沿った著作を、苫野さんはこれまで何冊も書かれているわけですが、今回の『学問としての教育学』は、10年近く前から構想を練り続けていたとうかがっています。その問題意識とは、どんなものだったのでしょうか。

教育学は、誕生以来、ずっと二流学問だと言われ続けてきたんです。

哲学者からすると、教育学では、教育は何のためにあり、どうあればよいと言えるのかという問い自体がほとんど探究されていないので、底が抜けているように見える。また、その他の学問分野の研究者には、教育学は科学になりきれていないように見えるんです。物理学などのハードサイエンスは、厳密な方法を駆使して再現性を担保するわけですけど、教育学では一回性の高い現象を扱うことが多いので、たとえばある教室で起きていることが他の教室にも当てはまるかどうかわからない。ではどうすれば科学性を担保できるのかというと、その理路は十分に明らかにされてきませんでした。さらに教育現場からは、もう長いあいだ、教育学は実践の役に立たないと言われてきました。

ただ私には、教育学は本来、非常に高度な総合学問であり、役に立つ応用学問である、ありうるはずだという確信が、長いあいだ、ありました。だから、教育学に哲学的土台を敷き、科学性を担保し、その上で、実践に役立つ理論や方法をいかに開発するかを明らかにすることで「学問としての教育学」を作り上げる、それがこの本を書いた目的です。

哲学不在の弊害

――いまお話しいただいたことが、この本の3つの柱である「哲学部門」「実証部門」「実践部門」に対応するわけですね。そのなかでも全体の土台となる「哲学部門」についてまずうかがっていきたいと思いますが、そもそも「哲学」が欠けていることには、どんな弊害があるのでしょうか。

弊害は無数にあるんですが、たとえば教育政策を立案するとか、教育改革を行うとか、あるいは日々の実践に取り組んでいくときに、それがどうあればよいかという「指針」がないと、時代に翻弄されて、あっちに行ったりこっちに行ったりしてしまいますよね。そしてその割を食うのは子どもたちです。

具体的な例を一つ上げると、近年、EBPM(Evidence Based Policy Making:エビデンスに基づく教育政策)というものが非常に盛んですが、これもどんな教育を目指して、何をどのように測定することが「よい」かという哲学的土台がないままに行われると、手近に測定できるものをとりあえず測定して、それが「エビデンス」の名のもとに重用され、害すらもたらしてしまう。もちろん、EBPM自体は大事なものですが、それは哲学に支えられなければなりません。

――いわゆる学力テストのようなものもよく話題になって、ある都道府県の全国での順位とか、あるいは日本の国際的な順位をどうやって上げていくかが論じられがちですが、そもそも何のために学力を上げるのか。そこはなかなか問われないように思います。

そうなんですよね。その問いが抜けていると、わかりやすく数値化できるものだけが教育を支配することになってしまう。

そして教育学も、指針がないと、たこつぼ化して、それぞれの研究者が狭い分野に閉じこもり、その範囲で「こういうことは言えそうだ」ということをやるしかなくなるんです。それはそれで意味があることですけど、ある知見が教育全体にとってどんな寄与をするのか、そのパースペクティブのなかで研究ができなくなってしまう。そうした弊害があります。

哲学部門を理解するキーワード

――哲学部門を理解する最重要キーワードは、「現象学=欲望論的アプローチ」と「〈自由の相互承認〉の原理」だと思います。もう一つ、「一般福祉の原理」というのもありますが、ここは本をお読みいただくとして(笑)、まず「現象学=欲望論的アプローチ」について、エッセンスをご説明いただけるでしょうか。

「よい教育とは何か」を論じようとすると、決まって「絶対に正しい教育なんてない」と言われます。それはもちろんその通りなんですが、この相対主義の論理が、長いあいだ、教育(学)界を支配してきたために、いまや教育学者は「よい教育」を問うことすらめったになくなってしまいました。でも、この相対主義の論理は、現象学によって解体し、「よい教育」を問い合う理路をちゃんと整えることができるんです。

まず、「絶対に正しい教育はない」というのは当たり前のことで、現象学は、そのような客観的真理を前提にした態度をそもそもエポケー(判断中止)します。

でもだからと言って、安易な相対主義に陥る必要はない。大事なのは次のことです。すなわち、私たちには何らかの「確信・信憑」が必ず訪れていて、このこと自体は疑えない。

極端なことを言うと、目の前にあるこのコップは本当は幻で、存在していないかもしれない。でも、私には「このコップが存在しているという確信・信憑」が疑いなく訪れている。あるいは「これは幻かもしれないぞ」という確信・信憑の場合もあるかもしれませんが、いずれにせよ、何らかの「確信・信憑」が訪れていることは疑いの余地がないわけです。

教育の話に戻すと、「絶対に正しい教育なんてない」のは当然ですが、その上で、私たちには、「この教育はよい教育だな」とか「この先生はよい先生だな」という確信・信憑がやってくることはありますよね。もちろん、その確信・信憑が、後で修正されるということはある。でも、そうした確信・信憑がやってきたこと自体は疑えない。

ならば、それはなぜ、どのようになのかということを人々が互いに問い合うことで、絶対の真理ではなく、「よい教育」の「共通了解」を見出すことができるんです。

そこで次に大事なのが、私たちの一切の認識は「欲望‐関心」に相関的に立ち現れるという「欲望‐関心相関性の原理」です。

「よい教育」もそう。私たちは、何らかの「欲望‐関心」に相関的に、「これはよい/よくない」教育だという確信・信憑を抱くのです。卑近な例を挙げれば、「やさしくされたい」という「欲望‐関心」に相関的に、「やさしい先生」を「よい先生」と認識する、といった感じですね。

とするならば、誰もが納得できる、「よい教育」の根幹を支えるような「欲望‐関心」はあるだろうか。そこで、ヘーゲルの洞察が重要になってきます。

――それが「〈自由の相互承認〉の原理」ですね。

そうです。ヘーゲルによれば、人間的欲望の本質は〈自由〉である。これは非常にすぐれた洞察で、人はみな自由に生きたいという欲望‐関心を持っている。詳細は本に書きましたが、ものすごく簡単に言うと、誰もが「生きたいように生きたい」と思っているはずだということです。だとすると、それを可能にする社会、そして教育とはどういうものかという問いが次に出てきます。

ここで人類の歴史を見ると、人々はみな自由に生きたいからこそ互いに争い、一万年以上にわたって命の奪い合いを続けてきた。もしその殺し合いを終わらせたいなら、あるいは、大多数の人の自由を一部の人が奪って統治するのではなく、すべての人が本当に自由に生きられるようにしたいのなら、どうすればよいか。

それは、互いに互いが自由な存在であるということを認め合う、このことをルールにした社会を作るしかない。これが「〈自由の相互承認〉の原理」です。

それでは、どうすればそうした社会を作れるか。まず大事なのは法(憲法)によって、誰もが自由であることを保障すること。そして公教育です。すべての人の自由を実質化するための力を育み、同時に、〈自由の相互承認〉の感度を育む。そのことで、社会における〈自由の相互承認〉の原理をより実質化する。これこそが公教育の本質である、ということになります。

――この本のもっとも基礎となる部分をご説明いただきました。ちょっと難しかったですが(笑)、身近な例にひきつけてみてもいいでしょうか。うちの子どもはいま保育園に通っているんですが、最近、ごみ収集車が大好きで、見かけるとすごく喜ぶんです。たとえば保育園でお散歩の最中、子どもがごみ収集車を発見して興味を示している時に、その好奇心を存分に満足させてあげる、それが「よい教育」だという確信・信憑が、私の場合は訪れます。でも、散歩のときは先生や友だちと手をつなぐとか、車に近づきすぎないとか、そういうことをきちんと教えることが「よい教育」だと考える人もいるだろうと思います。たとえばそうした状況では……。

ここでも、〈自由〉と〈自由の相互承認〉という指針原理が役に立ちますね。迷った時は、その教育のあり方や実践は、本当にこの子どもたちの〈自由〉を実質化し、〈自由の相互承認〉の感度を育んでいるのだろうか、と考える。

いまの例だと、過度な管理のなかでは人は自由になるための力を奪われてしまう、と言えると思うんですね。ルソーも言っているんですが、あれをしなさい、これはするな、と言い続けると、そのうち「息をしなさい」と言わないと子どもは呼吸さえしなくなるぞ、と。ずっと管理されていると、自分の頭で考えることができなくなって、どうすれば自由になれるかもわからなくなってしまいます。

でもその一方で、「興味があるなら、ごみ収集車を思いのままに追いなさい!」とやって、子どもが道に飛び出したら、自由どころか命さえ危ないですよね。

だから私たちは、どのような環境や条件を整えることが、子どもたちの自由への力を育み、また〈自由の相互承認〉の感度を育んでいけるかを、それぞれの現場の状況に応じて考え合う必要がある。

この場合は、安全に最大限の配慮をした上で、子どもたちにはできるだけ自由な遊びや探究の機会を保障する、という解が出てくるかもしれませんね。あくまでも例えばですが。

指針原理があると、その環境整備や具体的な実践方法を、状況に応じてしっかり考え合うことができるようになるんです。そうじゃないと、教育実践はただ好き嫌いで語られてしまうだけです。

今度、本書の出版記念イベントにも登壇してくださる山口裕也さんの言葉を使うと、われわれが3+2=5とか、25+24=49といったことがすぐ計算できるのは、加法の原理を知っているからです。同じように、哲学原理を知っていると、具体的な場でどうすることがよいかということが、ブレを減らして考えることができるようになる。実践や政策の足場ができるんですね。

――なるほど……。ご説明のおかげでより深く理解できたように感じます。具体的なイメージとしては、〈自由の相互承認〉ができている教育や学校というのは、どんな場所だと考えればいいでしょうか。

具体的な例はたくさん挙げられますが、まず大事なのは、先生‐生徒関係を含め、お互いを対等な存在として認め合う原理原則がはっきりしていること。つまり、一人ひとりが、自分は尊重されているとちゃんと実感できる場であることが大前提です。生徒はもちろんですが、先生にもそんな実感が不可欠です。

私たちは、他者から承認・尊重されて初めて、他者のことも承認・尊重できるようになるわけです。その意味で、人権侵害にも当たるような理不尽な校則などは、原理的に言語道断だと言えますね。

学びのあり方についても、自分たちの学びがちゃんと尊重されていると一人ひとりが実感できることが重要です。そのための「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」などについても、今回の本で論じています。

「メタ理論」の体系化

――ここまでご解説いただいたような「哲学部門」を土台として、「実証部門」と「実践部門」が展開されるわけですが、各部門それぞれの「メタ理論」の体系化が、本書の非常に大きなポイントだと思います。メタ理論とはどういったもので、その体系化はどのようになされるのでしょうか。

メタ理論というのは、個別理論を上位で包摂する理論のことです。たとえて言えば、さまざまな個別研究がソフトだとすると、それを有効に動かすOSがメタ理論にあたります。

哲学部門では、多くの場合、たとえばデューイはどう言ったとかカントはどう言ったとか、そういう過去の哲学者研究がなされています。それに対して、何のためにそのような個別研究をするのかと言えば、それはやはり、どのような教育が「よい」教育かを探究・解明するためであるはずです。ですので、その本質を解明する理論を哲学部門のメタ理論と呼ぶことができます。

この哲学部門のメタ理論は、実証部門にとっても実践部門にとっても、メタ理論になります。それぞれの実証・実践研究は、そもそも何のために、何を目指して行えばよいかについて、指針を提供するものであるからです。

実証部門には、他にもメタ理論と呼ぶべきものがあって、その一つが「科学性担保の理路」です。さっきも言ったように、教育学はその「科学性」を担保するのがとても難しいのです。ならば、どのような条件を整えればそれは十全な科学たりうるのか、そのことを解明しています。

そして実践部門のメタ理論は、どうやったら有効な実践理論や方法を作ることができるか、その根本条件を明らかにするものです。

これら3部門のメタ理論の相互連関を明らかにして体系化したものが、「メタ理論体系」ということになります。

――3つの部門が互いに支え合うような関係になるということですね。

そうですね。これまで教育学は、哲学的土台がなかったので、「何のために」の部分が実証部門・実践部門は十分にわからなかったし、実証部門の成果をどのように実践部門に活かしていけばいいかもよくわからなかった。また、実践部門と哲学部門がどうやって協働すればいいかもわからなかった。これら3部門がいかに協働関係を築くことができるかを明らかにしたことも、本書の一つの意義だと考えています。このメタ理論体系をナビゲーターとして、それぞれの部門がどんどん協働し、バージョンアップしていくことが、教育学をより発展させることにつながると思います。

これからの教育に向けて

――お話をうかがっていて、未来につながる本だということが改めてわかってきました。最後に、今後、教育に関する議論がどんな方向に進んでいくといいと苫野さんが考えているか、聞かせてください。

教育の世界は、好き嫌いを背後に忍ばせた信念対立が乱立してしまうところです。でも本書で明らかにした理路が共有されれば、さまざまな教育の政策や実践が、なぜ「よい」「よくない」と言えるのか、さらにはどうすれば「よりよい」ものにしていけるかを、論拠をもって建設的に問い合うことができるようになるはずです。そしてその論拠の科学性がどれくらい担保されているかも、ちゃんと吟味することができるようになるはずです。

「よい教育」を、そんなふうに力強く論じ合える教育議論を、いっそう展開していきたいなと思っています。

――さまざまな領域の人たちが、対立を超えて協働し合う土台に、この本がなることを願っています。本日はありがとうございました!

書誌情報

目次

はじめに――教育学を‟役立たせる”
第1章 教育学の根本問題
第2章 メタ理論Ⅰ 哲学部門――「よい」教育とは何か
第3章 メタ理論Ⅱ 実証部門――教育学はいかに「科学」たりうるか
第4章 メタ理論Ⅲ 実践部門――有効な実践理論・方法をいかに開発するか
第5章 教育学のメタ理論体系とその展開

イベント情報

3/10『学問としての教育学』刊行記念ウェブセミナー「教育実践になぜ哲学が必要なのか」開催決定!

苫野一徳著『学問としての教育学』の刊行を記念し、2022年3月10日(木)に、ウェブセミナー「教育実践になぜ哲学が必要なのか」の開催を決定しました。

●出演者
苫野一徳(熊本大学教育学部准教授。著書に『どのような教育が「よい」教育か』講談社選書メチエ、『勉強するのは何のため?』日本評論社など)
竹田青嗣(早稲田大学名誉教授。著書に『欲望論(1・2巻)』講談社、『哲学とは何か』NHKブックスなど)
山口裕也(杉並区教育委員会教育長付主任研究員。著書に『教育は変えられる』講談社現代新書)

●日時
2022年3月10日(木)19時~20時30分(予定)
YouTubeでのライブ配信を予定しています。

主催:日本評論社


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苫野一徳(とまの・いっとく)

熊本大学大学院教育学研究科准教授。哲学者・教育学者。公教育の本質としての「自由の相互承認」の原理を土台に、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」などへの「学び/公教育の構造転換」に向けた研究・実践活動を行う。著書に『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『教育の力』(講談社現代新書)、『公教育をイチから考えよう』(共著、日本評論社)などがある。