(第50回)「疑わしき」原則の意味とは(伊藤睦)
【判例時報社提供】
(毎月1回掲載予定)
名張事件第7次再審請求特別抗告
再審請求を棄却した原決定に審理不尽の違法があるとされた事例――名張毒ぶどう酒殺人事件第七次再審請求特別抗告審決定
最高裁判所平成22年4月5日第三小法廷決定
【判例時報2090号152頁】
この決定は、名張事件の第7次再審請求に関するものである。第7次再審請求では、2005年に名古屋高裁刑事第1部が再審開始を決定した後、同じ名古屋高裁の別の部が再審開始を取り消し、この特別抗告審で差し戻しはされたものの、最終的に再審は開始されなかった。この一連の経緯は、「開かずの門」といわれる再審の流れの中で、一旦希望が見えた分非常にショックを受けたという意味で心に残っている。なお、判例時報に掲載されたのは特別抗告審決定であるが、以下の内容は主として差戻し前の異議審決定に関するものであることをお断りする。
名張事件とは、三重県と奈良県の県境にある村落の懇親会で出された女性用の飲み物(ぶどう酒)の中に農薬が混入しており、それを飲んだ女性5人が死亡するなどした事件である。確定有罪判決によると、犯人とされた奥西勝さんは、現場で偶然一人になった隙にぶどう酒の瓶の蓋(王冠)を歯で開け、自宅から持ち出した農薬・ニッカリンTを混入させたことになっている。
しかし、再審請求の中で、弁護側は、その有罪ストーリーを裏付ける唯一の物証である、現場で発見された王冠の傷痕と奥西さんの歯形とが一致するという鑑定には誤りがあったことを明らかにした。また弁護団は、奥西さん以外の人が現場以外のところで瓶の蓋を開けて農薬を混入させ、またもとの状態に戻しておくことが可能だったこと、現場で発見された王冠の足の折れ曲がり方が歯で噛んで開けた場合にはあり得ない形状であること等を示した上で、さらには、凶器とされている農薬が奥西さんの所有していたニッカリンTとは成分の違う、異なる製法で作られた別のテップ剤である可能性を示した。
そこに至るまでの過程で、弁護団と支援者たちは、すでに製造中止となっていた王冠を自費で再生し、当時製造されたニッカリンTがとある倉庫で眠っているのを電子掲示板サイト・2ちゃんねる(現5ちゃんねる)のユーザーたちの協力によって突き止めて入手し、独自の実験と現地調査を繰り返し、検察側からの証拠開示等が不十分な中でも何とか手がかりを得るためのあらゆる努力を尽くした。その熱意は市民や学生たちの心も動かし、現地調査や勉強会に参加する者の多くが、少なくとも確定判決の有罪ストーリーには疑いがあり、最終的に無罪になるかどうかはともかく、もう一度再審公判の場で吟味する機会をもつことが必要だという弁護団の主張を受け入れた。当時の私のゼミ生たちも、異議審で再審開始が取り消された時は大いにショックを受けて、やりきれない思いをぶつけるために「不当決定」と書いた凧を揚げたそうだ。
むろん、再審開始を取り消した裁判官も、安易にえん罪を見過ごそうとしたわけではなく、むしろ真摯に、自ら積極的に事実を見極めようとした結果、弁護団とは反対の結論に至っただけなのであろう。
しかし、再審請求の段階でも「疑わしきは被告人の利益に」という刑事訴訟法の鉄則は適用される。研究者や市民、学生だけでなく、名古屋高裁第一部の裁判官も、確定有罪判決に疑いが生じていることを認めた。そもそも確定前の一審の裁判官は、当時としてはかなり珍しいことに、無罪の判断をしていた。しかも、この事件は死刑事件である。死刑存置の是非はさておき、そのような究極的な刑罰を保持する以上、万が一にも無実の者に誤って死をもたらすことがないよう、疑いを徹底的に除去するための吟味の機会をもつことが国家としての当然のつとめではないか。「もとの有罪ストーリーが成り立たなくてもその人が犯人であることには変わりがない」という裁判官の心証を徹底的に崩し、絶対の無実を証明するのでない限りその機会が保障されないというのは、疑わしき原則のいうところではないし、正義の観点からも妥当たり得ない。
この特別抗告では、最高裁も確定有罪判決に疑いがあることを認めたが、上記のとおり、再審開始には至らなかった。奥西さんはその後も再審を請求し続けたが、2015年、雪冤の機会を与えられることなく亡くなった。現在も、奥西さんの遺族により再審請求は続いている。決してこのようなことが繰り返されてはならないことは心に刻まれるべきである。
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1973年生まれ。三重大学人文学部専任講師、准教授を経て現職。著書に、『刑事法学と刑事弁護の協働と展望:大出良知先生・川﨑󠄂英明先生・白取祐司先生・高田昭正先生古稀祝賀論文集』(共著、現代人文社、2020年)、『判例学習・刑事訴訟法〔第3版〕』(共著、法律文化社、2021年)など。