『実践トラウマインフォームドケア:さまざまな領域での展開』(著:亀岡智美)
序文
わが国のこころのケアを牽引してきた兵庫県こころのケアセンターの亀岡智美先生の編著による『実践トラウマインフォームドケア――さまざまな領域での展開』の序文を書くことは身に余る光栄である。
筆者自身が精神保健や自殺対策の活動の中でトラウマの問題にどのように出会ったかを振り返り,本書から筆者が学んだこと,将来への期待を述べる。
トラウマの問題との出会い
地域精神保健では,一人では処理しきれないようなつらいできごとを背負いながら生きて,信じられる人がいない中で統合失調症等の精神疾患に罹患した人の支援の困難さに出会った。また,精神障害者家族会や精神障害当事者の話には,さまざまな形でトラウマが語られていた。その中で出会った堀俊明さん(西風の会)の言葉「障害っていうのは,その人の人格とか心の問題ではない。『心を病む』とか『心の病気』とかいう表現があるけれど,あれはおかしいと思う。精神障害者だから心が不健康ということはないはずですから。逆に,体が健康でも心が不健康な人間もいっぱいいますから」(高知県立精神保健福祉センター『変わっちゅうろうか』高知新聞社,1996)には,今でもこころを揺すぶられる。
阪神大震災以後,こころのケアがさまざまな形で話題にのぼるようになった頃には,豪州で精神分析的精神科医のオイゲン・コウ(Eugen Koh)先生に出会い,アートによるメンタルヘルスへの関心を共有する中で,トラウマの長期的影響という視点を得た。この出会いは,現在「日本における第二次世界大戦の長期的影響に関する学際シンポジウム」に発展している。
自殺予防総合対策センターでは,全国自死遺族連絡会の田中幸子さんとの出会いの中で,自死遺族の自助グループとして到達した「悲しみは愛しさ」「悲しみは自分たちのもの」「悲しみとともに生きる」という言葉に出会った。また,大塚俊弘先生(長崎県精神医療センター)との共同作業による「ワンストップ支援における留意点――複雑・困難な背景を有する人々を支援するための手引き」作成では,生活困窮,DV被害,幼少期の逆境体験等を経験した相談者の支援について,相談者の特徴,支援におけるポイント,支援の実際を各4頁にまとめた。地域の支援者,研究者,自死遺族,ジャーナリスト等を含む手引き作成チームを組織し,各専門領域の講義や実践活動報告を行う公開の合宿セミナーを開催し,それをもとに大塚先生が中心になってまとめてくれた。ここでは困難を抱えた人の連携支援の構築が課題であったが,トラウマインフォームドケア(以下,TICと略す)の普及は隠れたテーマであった。
本書から筆者が学んだこと
次に本書から筆者が学んだことを述べる。
第1章はTICの基本的理解である。TICは支援現場における再トラウマ化を予防するために生まれた概念であるが,ユニバーサルな支援であると述べている。トラウマ体験,生活の中のリマインダー,トラウマ関連症状の「トラウマの三角形モデル」は本人も含む支援者が理解を共有するのに役立つだろう。
第2章は地域精神医療におけるTICである。患者の語りに耳を傾け,いたわり,困難をうまく乗り越える方策を対話の中で探すシンプルで原則的なケアの重要性を述べている。
第3章は子ども虐待とTICである。虐待された子ども,養育者,支援者のすべてに,安全が保障された環境で,それぞれのアタッチメントが活性化し,機能することが望ましく,そのカギとなるのがTICであると述べている。
第4章は社会的養護におけるTIC実践である。トラウマによる反応や症状を妥当なものと認める態度と,トラウマ歴を有する子どもであっても自らの行動に責任をもつことが必要という考えの双方のバランスを保つことは,行動を制御し,主体性を取り戻すための取り組みであると述べている。
第5章は発達障害とTICである。ADHDやASDの子どもはトラウマとなるできごとを経験するリスクが高いこと,トラウマと発達特性に起因するストレスが明確に切り離せないことから,発達障害の支援現場にトラウマインフォームドな支援を加味することがニーズに合うと述べている。
第6章は児童相談所調査をもとに,全国的な,組織全体のTICの取り組みの必要性を指摘している。
第7章は大阪府における児童相談所を中心としたTIC実践と課題である。「子どもの回復を願う多くの人たちとともに成長していく児童相談所でありたい」という言葉は印象深い。
第8章は児童養護施設における,支援者と支援組織全体で取り組むTICである。児童養護施設入所児童の約3分の2に被虐待体験があり,支援者と支援組織も傷つきを抱えている可能性があることから,支援組織全体でTICに取り組むことの重要性を指摘している。
第9章は岡山県精神科医療センターを拠点病院とする子どもの心の診療ネットワークにおけるTIC普及の取り組みである。機関を超えた学び合い(協働)による人材育成や,岡山県精神科医療センター内におけるトラウマ関連症状やトラウマ歴を扱うことのできる職員の増加が紹介されている。
第10章はTICの考え方を学校教育に応用させたトラウマセンシティブスクールの紹介である。トラウマを抱えた子どもだけでなく,学校に関わるすべての人々の安心・安全な環境の提供については,TICのCをケアとコミュニティの重なるものと読むと興味深い。
第11章は精神科医療におけるTICについて,米国での発展経緯,精神科入院における行動制限最小化のコア戦略の一つにTICがあること,日本精神科救急学会の精神科救急医療ガイドラインにTIC普及が含まれていることを紹介している。そして,実装科学の観点からの評価をもとに,精神科専門職の養成プログラムにTICが組み込まれることへの期待を述べている。
第12章は精神科クリニックの診療記録の二次解析をもとに,精神科外来におけるTICの視点の重要性を指摘している。
第13章は精神保健福祉センター・保健所の質問紙調査の報告である。これらの機関における展開の重要性を指摘している。
第14章は地域におけるトラウマの影響を理解していく一手段として,展覧会『トラウマ展――みてないことへの寄り道』の取り組みと参加者の感想を紹介している。ここではTICのC(ケア)をコミュニティ(C)に重ねることの重要性が示されている。
将来への期待
筆者は研修等で話をする時,WHO(世界保健機関)が1998年に健康の定義改訂の提案を行ったことに触れることが多い。改訂の提案では傍点が追加された。
「健康とは,病気でないとか,弱っていないということではなく,身体的にも,精神的にも,スピリチュアルにも,そして社会的にも,すべてが満たされた動的な状態にあることをいう。Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.」
「スピリチュアル」は人間の尊厳の確保や生活の質の観点から,「動的」は健康と疾病は連続したものであることから追加することが提案され,WHO総会で審議した結果,採択が見送られた。筆者は「スピリチュアル」に,人が生きる土台にあるものや,歴史や文化を連想する。すなわち,健康とは,ある個人のうちにある,その時点の精神的・身体的・社会的健康状態に加えて,家族や社会の背負ってきた,その人につながる歴史で構成された動的な状態ということもできる。
トラウマは,健康の定義の中の「精神的」と「スピリチュアル」にまたがるもので,TICとは生きる力の回復支援ではないか? 本書の執筆者とこのことを話し合いたいと思う。
さて,TICは支援現場における再トラウマ化を予防するために生まれた概念であるが,ユニバーサルな支援としての持続的発展と普及を強く願う。その一方,われわれは輸入されてきた言葉や概念が10年くらいで忘れ去られ,消えていくこともしばしば経験してきた。本書は,子ども支援,精神保健医療を中心に,TICの実践に糸口をつけたものであるが,それは,実証科学として,実践として発展し,継承されていかねばならない。そのためのヒントはPDCAとSDCAにあるように思われる。古谷健夫氏(株式会社クオリティ・クリエイション)は,価値創造のためには,方針管理(PDCAサイクル),日常管理(SDCA),風土づくり(QCサークル活動),問題解決(QC的なものの見方・考え方)が大切であると述べている。SDCAとは,Standardize(標準化)⇒Do(実行)⇒Check(検証)⇒Act(是正処置)⇒Sのサイクルである。TICの実践はまさに入り口に立ったところであり,その持続的発展と普及には,ここに述べた価値創造の考え方と実践が役立つのではないか。
筆者の勤務する川崎市総合リハビリテーション推進センターは,障害者更生相談所と精神保健福祉センターの統合によって整備されたが,単に組織を一つにしただけではない。高齢者や障害児も含めた保健・医療・福祉サービスの質の向上やネットワーク化を推進する全市的な連携拠点であり,地域共生社会(インクルーシブな社会)実現のための行政の実践・技術センターである。当センターの活動においてもTICは重要な基盤であり,その普及と実践に取り組みたい。
本書がTICの実践書として版を重ねることを祈念する。
令和4年8月
川崎市総合リハビリテーション推進センター所長
竹島 正
第1章 トラウマインフォームドケアとは(亀岡智美)
はじめに
トラウマインフォームドケア(Trauma-Informed Care:TIC)とは,医療・保健・福祉・教育・司法などさまざまな領域で,トラウマについての理解を深め,サービスの多様な局面でトラウマへの癒しを大切にしようとする支援の基本概念である。また,トラウマの影響を理解しそれにしっかりと対応するための,ストレングスを基盤にした枠組みでもある。TICでは,支援者とクライエント双方の身体面・心理面・感情面の安全が重視され,クライエントがコントロール感を取り戻しエンパワーされる機会が提供される。このようにTICは,トラウマの理解に基づいた支援/ケアの基本概念であり,注目する側面によっては,Trauma-Informed ApproachやTrauma-Informed Practice,Trauma-Informed Systemなどの用語が用いられることもある。
TICは,医療・保健・福祉・教育・司法など,さまざまな領域でも利用可能なツールであるし,さらにいえば,専門家以外の人でも用いることができるものである。たとえば,町で困っている障害者を見かけたら,一般市民が思わず手を差し伸べることはよくあることである。このような支援をDisability-Informed Care(障害の理解に基づく支援)とするならば,そのトラウマ版がTICである。
このように考えると,案外たやすいようにも思えるが,その一方で,TICが特定の治療プログラムのような明確な輪郭をもつものではないために,漠然としてとらえどころがないのも事実である。要するに,TICとは,従来それぞれの領域で受け継がれてきたさまざまな支援方法や治療法と並立するものではなく,すべての支援方法や治療法の基盤の部分に,通奏低音のように絶えず流れているべきものなのである。
わが国の精神科看護,精神医療,教育,児童福祉領域にTICの概念が紹介され始めたのは,2010年代のことである。その頃,海外のさまざまな学術会議のトラウマ関連のセッションでは,さかんにTICについての議論がなされていた。それでも,当時の筆者らは,心的外傷後ストレス障害(posttraumatic stress disorder:PTSD)への認知行動療法である持続エクスポージャー法(Prolonged Exposure Therapy:PE療法)やトラウマフォーカスト認知行動療法(Trauma-Focused Cognitive Behavioral Therapy:TF-CBT)を習得したり実践したりすることに没頭しており,なぜ効果が実証された治療法が確立され普及しているのに,TICなどという,なんだかあやふやで中途半端なものが必要なのか? と不思議に思ったものだ。しかし,数年後,いくつかの機関でTF-CBTの試行実践を開始する段階になって,大きな壁にぶつかることになったのである。
一般的にトラウマケアを考える時,図1-1に示すような3層構造モデルが示されることが多い。3層構造のトップに位置づけられるのは,トラウマに特化したPTSDへの治療プログラムである。PE療法,眼球運動による脱感作と再処理法(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:EMDR),認知処理療法(Cognitive Processing Therapy:CPT),PTSDへの認知療法(Cognitive Therapy-PTSD:CT-PTSD)や,子ども向けにはTF-CBTなどがある。これらは,PTSD治療ガイドラインにおいてもその効果が実証されており,その中のいくつかはわが国でも効果が実証されているものである。
当時,筆者がホームグラウンドとしている,児童福祉や児童青年期精神医学領域で,トラウマについて適切な知識を有している臨床家は,今よりもずっと少なかった。子どものPTSDのアセスメント技術を有している臨床家もほとんどいなかった。その中で,PTSDの専門治療を実践しようとすると,「よくわからないけどトラウマ関連だと思われる」問題行動がひどい事例や対応困難で煮詰まっている症例などが,何の準備もされないまま,TF-CBTの技術を有している専門家のところに丸投げされてきたのである。紹介を受けた臨床家は,ほとんど支援ニーズを表明していない子どもと関係を構築し,トラウマについての一般的な心理教育とPTSDのアセスメントを実施し,子どもや養育者の治療意欲を引き出し,それからやっと専門的なTF-CBTに取り組む,ということになった。中には,TF-CBTの治療対象とはならないケースも多くあった。結局,高度な技術を有する臨床家が,ケースの取捨選択に埋没してしまい,その技術を十分発揮できない事態となったのである。さらに,治療終了後の子どもの健全な成長をサポートしていくためには,治療者だけではなく,家族や地域社会を含めたエコロジカルなサポートシステムを構築する必要がある。しかし,そのサポートシステムの構成要員である支援者にトラウマに関連する知識がないと,子どもをひたすら温かく見守るだけの支援や,従来の叱咤激励・道徳的倫理的指導に終始してしまい,トラウマの観点に立った支援が失われてしまうことも少なくなかった。
TICは,まさに,このような事態を改善するために生まれてきた概念である。本書では,TICのとらえどころのなさを少しでも払拭し,さまざまな領域の専門家がTICやTrauma-Responsive Careに精通できるように,そして,わが国において持続可能な形でTICが発展していけるように,多角的な視点でTICを概観していきたい。なお,本書では,便宜上Trauma-Responsive CareとTrauma-Informed Careをあえて区別せず,TICと記載している。
続きは本書でご覧ください!
目次
第Ⅰ部 トラウマインフォームドケア概論
第1章 トラウマインフォームドケアとは ……亀岡智美
1.TIC発展の背景/2.トラウマ/ACEsの広がり/3.トラウマ/ACEsの広範な影響/4.TICに求められること/5.TIC実践の際の障壁 25
第2章 地域精神医療におけるトラウマインフォームドケア ……大久保圭策
1.精神科臨床におけるトラウマ関連問題の難しさ/2.精神医療自体のトラウマ性/3.逆境的小児期体験と精神疾患/4.医療トラウマと精神医療の特殊性/5.精神科外来医療におけるTIC/6.トラウマ体験者の認知・行動特徴と陰性感情,ジャッジメント
第3章 子ども虐待とトラウマインフォームドケア ……亀岡智美
1.虐待された子どものトラウマ――トラウマとアタッチメントの相乗的悪循環/2.虐待加害養育者にみるトラウマ/3.支援者のストレスとトラウマ/4.アタッチメントを強化するTIC
第4章 社会的養護とトラウマインフォームドケア ……亀岡智美
1.社会的養護におけるPTSD症状/2.社会的養護と再トラウマ化/3.トラウマの見える化/4.TIC実践のコツ
第5章 発達障害とトラウマインフォームドケア ……亀岡智美
1.発達障害とトラウマ/2.発達特性とPTSD症状の類似性/3.発達障害とトラウマ治療/4.発達障害へのTIC
第Ⅱ部 子どもの医療・福祉・教育領域でのトラウマインフォームドケア
第6章 全国児童相談所調査――トラウマインフォームドケアの実態と課題 ……野坂祐子
1.調査の目的と方法/2.調査結果の概要/3.児童相談所における組織的な取り組み/4.調査結果からみる児童相談所の現状と課題
第7章 児童相談所におけるトラウマインフォームドケア ……丸橋正子
1.TICの10年の実践を振り返って/2.大阪府子ども家庭センターにおけるトラウマケアの実際/3.大阪府子ども家庭センターのTIC実践の課題と今後の方向性
第8章 児童養護施設におけるトラウマインフォームドケア――支援者と支援組織全体で取り組むために ……酒井佐枝子
1.ある児童養護施設でのできごとを通してTICを考える/2.パラダイムの転換/3.TICを実践に取り入れるために必要なこと
第9章 子どもの心の診療ネットワークにおけるトラウマインフォームドケアの可能性 ……壺内昌子・来住由樹
1.子どもの心の診療ネットワーク事業/2.岡山県子どもの心の診療ネットワーク事業/3.機関を超えてともに学び合うこと(協働)による人材育成/4.トラウマケア研究会の実施/5.子どもの心の診療ネットワークの中でのTF-CBTの広がり/6.岡山県子どもの心の診療ネットワーク事業の強みを活かした効果
第10章 トラウマセンシティブスクールの枠組みと取り組み ……中村有吾
1.トラウマセンシティブスクールとは/2.トラウマが学校の行動に及ぼす影響/3.ポジティブ行動支援/4.チームによるアプローチ
第Ⅲ部 精神医療・保健福祉領域でのトラウマインフォームドケア
第11章 精神科医療におけるトラウマインフォームドケアの普及に向けて ……西大輔・小竹理紗・宮本有紀
1.研修動画の開発/2.研修動画の内容/3.実装科学の観点からの研究プログラムの評価/4.研修受講後の精神科看護師の反応/5.今後の課題
第12章 トラウマ専門治療機関からみるトラウマインフォームドケア ……田中英三郎
1.精神科臨床の現場でTICは優先課題であろうか? /2.背景/3.方法/4.結果/5.考察/6.論文のまとめ/7.精神科臨床における優先課題としてTIC
第13章 精神保健福祉センター・保健所調査からみえるトラウマインフォームドケア ……臼田謙太郎・西大輔
1.方法/2.調査結果の概要/3.まとめ
第14章 アートとトラウマインフォームドケア ……大岡由佳
1.取り組みの概要/2.結果/3.考察
書籍情報
- 亀岡智美 著
- 紙の書籍
- 定価:税込 2,750円(本体価格 2,500円)
- 発刊年月:2022年10月
- ISBN:978-4-535-56412-1
- 判型:A5判
- ページ数:224ページ
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