『痴漢を弁護する理由』(編:大森顕、山本衛)

一冊散策| 2022.11.16
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はしがき

「痴漢」という言葉を聞いて、みなさんの頭にはどのようなイメージが浮かぶでしょうか。

治安を乱す犯罪者

性欲の赴くがままに行動する「変態」

あるいは「痴漢冤罪」という言葉で表現されるような、「犠牲者」でしょうか。本書は、「痴漢」を題材とした小説ですが、物語を読み終えたとき、みなさんのイメージするそれぞれの痴漢という「性犯罪」の向こう側まで来ることができたと感じていただくことが、私たちのねらいです。

私たちは、多くの刑事事件に実際に携わってきた弁護士です。毎日のように様々な刑事事件に接していますが、その中には当然痴漢事件もあります。弁護士として痴漢事件に接してみて感じるのは、「痴漢」という犯罪については、ステレオタイプが独り歩きしているのではないかということです。テレビドラマや電車広告で表現される「痴漢」は、ときに性欲にかられた異常者かのようにも描かれますが、実際に事件を起こしてしまった「犯人」の姿は必ずしもそのようなものだけではなく、意外なほどに常識的だったり、どこにでもいる「普通の人」のように見えることがたびたびあります。「普通の人」がなぜ「痴漢」になってしまうのか。この理由、背景は様々ですが、痴漢の実相を理解することは弁護士ならずとも、世の中の多くの人に意味があると思っています。なぜなら、被害者も被疑者・被告人も私たちと同じ空間、あるいは同じ世界にいて、「あちら側」と「こちら側」はきっぱりと線引きできないからです。

同時に、私達が普段弁護士として向き合っている、この国の刑事司法の実態や問題点、そこに関わる人達の本当の姿を知ってほしいと考えました。無実の人が逮捕され、懲役刑に服さざるをえなくなった冤罪事件の報道がなされることがありますが、その背景として取り調べや捜査の方法などが課題として挙げられています。犯罪が発生し、警察が捜査をし、事件として扱われるようになると、どのようなことが起こるのか。その実態を知ってもらうことで、この国の刑事司法のあり方を多くの人に考えてもらいたい。そのような狙いから、「痴漢」という性犯罪を敢えて取り上げることにしました。

この物語ではステレオタイプを提示したり、展開の面白さを追求するために誇張することをできるだけ避け、小説ではあるものの現実を率直に描くことに徹しました。そして、この小説には「主人公」らしい人物はいません。普通の弁護士、普通の検察官、普通の裁判官、そして普通の人――被害者や被疑者・被告人――がいるだけです。これらの登場人物にはそれぞれの立場に応じた、深刻な悩みがあります。テレビドラマに出てくるような天才弁護士の活躍を描くことはせず、私達の、弁護人としての実際の仕事の内容を反映しました。検察官や裁判官の仕事ぶりについては、できる限りのリサーチを行い、それぞれの立場で生じる悩みに真摯に向き合う彼らの姿を描きました。

このように多くの人物を登場させることで一つの問いが浮かんできます。それは、善悪は本当にきっぱりと線引きできるものなのか、仮に罪を犯してしまったとしても、社会がその人を責め続けるのは正しいことなのか、ということです。これは私たち弁護士も日々感じる疑問の一つです。このような点について思いを巡らしていただくために、私達が普段取り組んでいる二種類の事件を取りあげました。つまり、痴漢の犯罪事実を争っている事件―否認事件と、実際に痴漢をしてしまい犯罪事実に争いのない事件です。二つの事件の性質は正反対ですが、それぞれにフォーカスすることで「痴漢」の実相、そして刑事手続の実態に一層迫ることができるのではないかと考えました。

執筆陣は、本書が今まで出版された刑事司法をテーマにした小説の中で、最もリアルな小説となることを目指しました。

この本は、普段法律に関わらない方々にこそ、ぜひ手に取っていただきたいと思います。また、法律を学び始めた方―法学部生や法科大学院生、司法試験の受験を考えている方々にとっては、刑事事件の流れを具体的に理解し、将来の仕事をイメージする上で役立つかもしれません。授業やゼミなどでの副読本として使っていただくのも有益かもしれません。

本書の執筆に際し、斉藤章佳氏(大船榎本クリニック)からは性嗜好障害とその治療について貴重な助言をいただきました。ここに記して感謝申し上げます。

この物語に出会ったことが、読者の皆様が刑事司法のあり方について考えるきっかけになれば幸いです。

二〇二二年八月

著者一同

物語にでてくる主な刑事手続について

この小説は痴漢にまつわる事件を描いていますが、事件である以上、法律にかかわる問題もでてきます。事件が起こり、警察等の捜査機関が捜査を行い、被疑者の逮捕や取り調べ等がなされ、その中の一定数の事件が裁判にかけられた上で、裁判所が犯罪の成否や刑罰の重さを判断するのが刑事事件です。この事件の発生から裁判により科すべき刑罰を確定するまでの一連の流れを刑事手続と呼びます。刑事手続にはルールがあり、このルールは主に刑事訴訟法という法律が定めています。この小説では刑事手続にかかわる描写が多く出てきますが、普段法律になじみのない方には難しく感じられるシーンもあるかもしれません。ですので、この小説をより一層楽しめるよう、以下では物語に出てくる刑事手続のうち、いくつかの重要なルールを刑事訴訟法等をひも解きながら簡単に解説します。

1 捜査
【捜査の開始】
刑事手続は、事件が発生したところから始まります。もう少し具体的に言うと、捜査機関、すなわち警察官(場合によっては検察官)が、犯罪がなされたのではないかと考えた時から始まります。刑事訴訟法においても、その第一八九条二項には「司法警察職員は、犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査するものとする。」とされています。事件の発生が捜査機関に認知されると、捜査機関による捜査が始まるというわけです。

警察官が、「犯罪がある」と考えるきっかけは、犯罪の被害者であるという人からの申告(被害届や告訴)による場合が多いとされていますが、その他にも、犯罪の目撃者など第三者からの申告(告発など)や、犯人自身の自首があった場合、さらには、捜査機関が独自に収集した情報により張り込みをしていたところ、そこで犯罪が行われ、それを現認したという場合もあるでしょう。

いずれにせよ、捜査機関が「犯罪がなされた」と考えた場合、そこから捜査が始まります。

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