『これだけは知っておきたい数学ビギナーズマニュアル(第2版)』(著:佐藤文広)
- #一冊散策
数学は発展しているII (質的発展)
ところで,量が多いだけでは本質的な進歩を遂げている証拠にはならないと考える人もいるでしょう.しかし,現代の数学の発展は,新しい視野が開けつつある印として次のような特徴を持っています1).
1.古くからの問題の相次ぐ解決
何十年,何百年ものあいだ未解決であった問題が解かれる.これほど数学の進歩を端的に表わすものは無いでしょう.たとえば, 1980 年代に入ると 1981 年 2 月に “有限単純群の分類” の完成が宣言されました.群とは,大ざっぱに言うと,ものの対称性を数学的に捉えるための概念です.その意味では,群は装飾品や壁画などに見られる対称性とともに古くから存在しているとも言えますが,数学的な群論はガロアの方程式論 (1832) から始まります.ガロアにおいてすでに有限単純群の概念は意識にあったようですから,多くの数学者の 150 年に及ぶ努力が実を結んだといえます.1994 年には,A.ワイルスによって,フェルマー予想が解決されました.フェルマー予想とは,
$n\geq 3$ のとき,
\begin{align*}
x^n+y^n=z^n
\end{align*}
を満たす自然数は存在しない
という主張です.ピエール・ド・フェルマー (1601–1665) は,古代ギリシアの数学者ディオファントスの書『算術』の第 2 巻第 8 問の余白に「この定理に関して,私は真に驚くべき証明を見つけたが,この余白はそれを書くには狭すぎる」という書き込みをしていたのです.このことは,フェルマーの息子のサミュエルがフェルマーによる書き込みを含むディオファントスの書物を公刊し広く知られるようになりました.しかし,この一見したところ全くシンプルな主張は,その外見に反して極めて証明困難な問題でした.フェルマー予想を証明しようという試みは,19 世紀以降は代数的整数論の発展に多大な刺激を与えながら続けられてきました.そして,ついに,20 世紀に大きく発展した整数論,保型関数論,数論的代数幾何学の成果を総動員してなされたワイルス氏の研究によって,300 年以上にわたる未解決問題に決着がついたのでした2).
より最近の話題としては,2002–2003 年に発表されたグレゴリー・ペレルマンによるポアンカレ予想の証明があげられます.フランスの有名な数学者アンリ・ポアンカレ (1854–1912) は,19 世紀から 20 世紀への代わり目に,今日,トポロジー (位相幾何学) と呼ばれる数学の新しい分野を開拓します.その中で,3 次元の球面 (4 次元空間内で $x_1^2+x_2^2+x_3^2+x_4^2=1$ で定まる図形) は,空間内に描かれた閉曲線が常に連続的に 1 点にまで収縮させられるという性質で,他の 3 次元図形から区別できるのではないかという推測に至ります.これがポアンカレ予想の源です.ポアンカレ予想は 4 次元以上の高次元の球面にまで一般化され,5 次元以上だと 1960 年に S.スメイルにより,4 次元では 1981 年に M.フリードマンにより証明されていました.よりやさしそうにも見える 3 次元の場合が最後に残り,やっと 100 年後にペレルマンが証明を与えたのでした.ペレルマンには,スメイル,フリードマンと同様に数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞が与えられましたが,受賞を辞退したことでも話題になりました3).
このように,数学は今も動いているのです4).難問が解決した先の状況にも目を向けてみましょう.そこで興味深いことは,このような問題の解決が考えるべきことの終わりではなく,より困難な問題への挑戦・予期せぬ現象の発見など新しいミステリーの始まりとなっていることです.今日の数学は,解決の実績を誇る多くの問題のリストと,未だ解き得ぬ多くの夢のような予想・研究プログラムのリストとを併わせ持っています5).
2.数学の対象の拡大
数学の発展は,古くからある問題意識に答えるだけではありません.これまでの数学が取り扱いきれなかった対象へと,その手を伸ばしていきます6).美しいコンピュータグラフィックスで知られるカオス・フラクタルなどの数学は,そのよい例だと思います.また,別の例をキーワード風に言うならば,「非可換の数学」とか「無限次元の数学」と言えるでしょうか.非可換微分幾何学とか無限次元リー環論とか新しい分野が大きく発展してきています.この動きは,次に述べる特徴とも大いに関係しています.
3.物理学との密接な関係の回復
19 世紀中頃まで物理学と数学は緊密に手を携えて発展してきました.しかし,19 世紀から 20 世紀への代わり目の前後に数学は自らのよって立つ基盤を見つめなおし,同時に自分自身の内部から応用に直結しない多くの新分野を生み出すことによって,(すべての数学がそうであったとは言えないにしても) 物理学との距離を広げてきているように見えていたのが 1970 年代くらいまでの数学の姿でした.
しかし,近年,整数論を代表とするような,これまで物理学とはまったく無関係に発展してきた (純粋) 数学の多くの分野で物理学との関係が見いだされ,新しい研究の原動力となっています.物理サイドでは素粒子論・統計物理学,数学サイドでは微分幾何学・位相幾何学・代数幾何学・整数論などの分野で特に顕著に見られる現象です.
4.コンピュータの発達と応用の拡がり
応用数学の分野でも,コンピュータの発達に加え,数学の新しい応用が見いだされています.たとえば,宇宙空間からのテレビ画像の送信やコンパクトディスクなどのような情報を信号化して伝達する技術の基礎である符号理論に,有限体上の代数幾何学 (有限個の点からなる空間の幾何学) が応用されるようになりました.暗号理論への整数論 (巨大な数の素因数分解) の応用,流行語にまでなった「ファジー」制御に用いられる数理論理学的考え方 (多値論理),確率微分方程式など高度な確率論に立脚した金融数学なども注目をひきます.上で触れた物理学の場合にもそうでしたが,これらは,従来,純粋数学の見本とみなされてきたような分野の応用です(第 7 章 §2 に,多少説明を補ってあります).
脚注
1. | ↑ | この節で述べられている数学用語のほとんどは,みなさんにとって今はまったくわけのわからないものでしょう.でも,気にする必要はありません.数学が,現在盛んに研究され急速に進歩していることを,感じてもらえれば良いのです.その中身はこれから何年もかけて学んで行くのですから. |
2. | ↑ | フェルマー予想をめぐる数学者の格闘の軌跡は,足立恒雄『フェルマーの大定理整数論の源流』筑摩書房 (ちくま学芸文庫),アミール・D・アクゼル『天才数学者たちが挑んだ最大の難問 フェルマーの最終定理が解けるまで』吉永良正訳,早川書房 (ハヤカワ文庫),加藤和也『解決! フェルマーの最終定理現代数論の軌跡』日本評論社,などに生き生きと描かれています.本格的には,加藤和也『フェルマーの最終定理・佐藤–テイト予想解決への道』(類体論と非可換類体論 1) 岩波書店,斎藤毅『フェルマー予想』岩波書店,を見てください. |
3. | ↑ | ポアンカレ予想については,ジョージ・G・スピーロ『ポアンカレ予想 世紀の謎を掛けた数学者,解き明かした数学者』永瀬輝男・志摩亜希子監修,鍛原多惠子・坂井星之・塩原通緒・松井信彦訳,早川書房 (ハヤカワ文庫),根上生也『トポロジカル宇宙 ポアンカレ予想解決への道 完全版』日本評論社,などをご覧ください. |
4. | ↑ | 本書第 1 版が最初に出版されたとき,ワイルス氏によるフェルマー予想の証明は発表されたばかりで,証明の不十分な点が発見されその修正がなされるという渦中にありました.現在では,フェルマー予想を簡単に導いてしまうことのできる「abc 予想」の証明が 2012 年に望月新一氏によって発表され,その検証と問題点の修正作業が続いているようです.数学は,休むことなくさらなる先を目指した動き続けていることがよくわかります.この abc 予想については,黒川信重・小山信也『 ABC 予想入門』(PHP 研究所,PHP サイエンス・ワールド新書) を参考にしてください. |
5. | ↑ | もっとも有名なのは,アメリカのクレイ数学研究所が 2000 年に発表した 7 つのミレニアム懸賞問題でしょう.この 7 つの問題には 100 万ドルの賞金が懸けられていることも大きな話題になりました.ポアンカレ予想もその問題の一つで,現時点では唯一解かれている問題です.関心のある方は,『ミレニアム賞問題:7 つの未解決問題はどうなったか?』(数学セミナー編集部編,日本評論社) をご覧ください. |
6. | ↑ | アメリカ数学会は,数学の研究分野を分類したリスト (MSC = Mathematics Subject Classification) を作成し,関連する文献を検索する際の便宜に供しています.多くの論文には,どの分野に関係する論文かを示すために,そのリストの分類記号が書かれています.この数学の分野名の一覧表リストは,インターネットからダウンロードできますが, 2010 年度版には,100 近い大項目,3000 以上の中項目,数えきれない小項目が含まれ,小さなフォントで 47 ページにものぼっています.これだけ多岐にわたる領域に数学は浸透していっているのです.ちなみに,19 世紀の後半からドイツで出版されていた『数学進歩年報』にも同様の分野の分類表があり,1900 年頃には,その分類表は 12 の大項目,41 の中項目, 42 の小項目からなり数ページに収まるものでした. |
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