ルッキズムからの自由――自分の中にあるルッキズム(立石結夏)
昨今「ルッキズム」という言葉が使われることが多くなりました。ルッキズムとは何なのでしょうか? ルッキズムの何が問題なのでしょうか? 本特集では、まず問題とされるべきルッキズムとは何なのかを考え、そのうえでルッキズムを法的に問題とする場合の議論のありかたを探っていきます。
ルッキズムの軛(くびき)
古典的な漫画の描写として、主人公が、朝寝坊して、朝食代わりのパンを口にくわえて慌てて自宅を飛び出して行く。でも、現実にはそんなことはあり得ない。
顔を洗って化粧あるいは剃毛をし、整髪し、今日の自分のファッションのせいで一日中みじめな思いをしないで済む衣服、靴、上着、かばんを選んで組み合わせ、あるいは、暗黙のうちに制服となっているような定型服、靴、かばんをセットで身に着けて、ようやく外に出ることができる。
自分たちは、自分たちの見た目にいったいどれくらいの時間をかけているのか。一日のうち、一か月のうち、一年のうち、一生のうち、かなりの時間をかけている。
自分たちは、大人であろうと子どもであろうと、仕事があろうとなかろうと、子どもがいようといまいと、どんな状況でも常にやらなければいけないことがたくさんあり、それをこなしていくのは大変である。やりたいこともあるし、本当は、何もしない時間だって必要である。
それに、服、髪、美容にはお金もかかる。頭も使う。収納に場所もとるし、ゴミも増やす。
何より問題なのは、心が奪われることだ。
自分の見た目はいまいちだから、せめて性格が良いか面白いことが言えないと友達ができないと思う。美しい他人と自分を比較して嫉妬し、嫉妬する自分を責める。痩せていないことを太っていると思い込む。化粧をしていないと堂々と人の目を見てしゃべれない。気に入っていた服がいつのまにか流行遅れになって着ることができない。
こんな心の状態は自由とはいえない。
ルッキズムはどこからくるのか
自分たちは、自分たちの限られた時間とエネルギー、お金や資源を、見た目のためにこんなにたくさん使いたいと思ってはいない。多少は自分の趣味や自分のためのおしゃれであったりもする。でも、美の基準はいつも自分以外がつくっている。
それでは、いつから、何が原因で、自分たちはルッキズムにとらわれてしまったのか。
まず、自分たちの生活は、メディアから距離を置くことができない。メディアの中の人間は、その人の役割や属性にふさわしい見た目の人が登場する。さらに、美しい人、洒落た服装、痩身の人間が毎日登場する。そして、美しさの規格から外れた人が笑いの対象になったり、いじられたりする。
次に、会社や学校である。男はスーツに短髪、女は清楚なお洒落が社会とのお約束で、それから外れていくことは、社会的地位や経済力の差の広がりの象徴ともなる。見た目の優位・劣位を強く意識させる組織は、当然に組織内の横の関係にも影響する。同僚、先輩、後輩の見た目を意識するし、意識される。くだけた場で見た目の話をして盛り上がる。
さらに、家庭や身近な人間関係である。家族や親しい関係の人が、あなたのためを思って、男なんだから、女なんだから、学生らしく、社会人らしく、もう若くないから、いい年だから、あるべき見た目のアドバイスをしてくれる。アドバイスをする人は、かつてはアドバイスを受ける側であった。
それぞれにあるべき見た目がある、ということが、社会のあらゆる場面で再生産され、幼少期から何となく当たり前のこととなって心の中に刷り込まれている。
こうやって、自分たちはいつも見た目を気にする生き物となり、自分以外がつくった見た目の基準を内面化し、自分の見た目に問題があると感じたり、自己肯定感を持てず、心の自由な状態が奪われていく。
厄介なのは、自分の見た目は、常に他人に見られていることである。他人の目を気にせずに、自分の見た目に満足をすることはとても難しい。他人から自分の見た目をネガティブに言われて、それを跳ね返す強い心を持てるような環境で自分たちは育っていない。
一方、美しい人が得だともいえないらしい。筆者は、世間で美人と言われている人が、かつて若かったころの自分と比較して、または比較されて苦しそうにしていたり、自身の結婚式での来賓からのスピーチで美人なことをやけに強調されて居心地を悪くしている様子を見たことがある。その他の苦労もあるだろう。
いずれにせよ、ごくごく一部の職業を除き、見た目はそんなに重大な問題ではない。
ルッキズムから逃れるために
では、見た目に気を遣いすぎている自分の心を変えていけば、無駄な時間やエネルギーを消耗することはないし、ネガティブな感情にとらわれることもないのか。自分の心の持ち方の問題なのか。問題は心の弱さか。
そうではない。このルッキズムに汚染された社会の意識を変えていかなければ解決しない。自分たちにいつの間にか刷り込まれた意識がすでにあり、そして見た目重視のルッキズム社会の中で、ルッキズムから自由になれない。
他人が人の見た目を不必要に言及することは、上品な人がすることではない、ましてやオフィシャルな場ではふさわしくない話題だ、くらいのことは社会のマナーとして定着してほしい。
それを超えて、必要がないのに他人の見た目をジャッジするのはとても失礼なことで、言葉の暴力になることがあるし、その場にいる人を不愉快させることがある、ということも教育現場で教えるべきだ。
筆者はルッキズムに基づく差別的な発言は、セクシュアルハラスメントやパワーハラスメントのように違法であると考えるが、このような考えは社会で定着していない。
自分の見た目は自分のものである
さて、ルッキズムから解放されたら、まったく自分の見た目に関心がなくなるのかといえば、そうでもないと思う。
自分の見た目は、他人と自分を一瞬で区別するマークであり、自分そのもの、自分の人格である。自分の見た目に満足していれば、それはとても心地が良い。
その心地よい状態を目指すのがとても好きな人もいれば、そうでもない人もいる。両者に優劣はないし、両者の間にはグラデーションやバラエティーがある。平日はスーツでいいが休日はおしゃれをしたい人、化粧はしないが服装にはとてもこだわりがある人、服装はいつも同じだけれど筋骨隆々な体形を目指している人、その時その時の時流に合わせた美容整形手術で顔を変える人。
ルッキズムから自由になるというのは、見た目の問題から解放されるという側面もあるし、自分らしく生きる、自己実現の側面もあるのだ。
その自己実現を阻むのも、筆者はルッキズムだと考える。本来、自分の見た目は自分で決めるべきプライベートな事柄で、誰にも邪魔ができないと思うからである。
制服や身だしなみのルールは、服装、髪の色、化粧等の有無等、見た目を定型にして自分の見た目を自分でコントロールできなくし、あるべき見た目とそうでない見た目を設定してしまう。このような身だしなみ規定は校則や会社の就業規則にみられる。
本来自分が何を着るか、髪を何色にするか、ひげをそるか、鼻にピアスをするかは他人に迷惑をかけるものではないから、本来自分で決定するべきで、集団の帰属意識や忠誠心のスケールにすべきでない。自分らしい見た目でいた方がよほど勉強や仕事に集中できるのではないだろうか。
むしろ、未成年のうちから、自分の見た目は自分で決めていいのだ、という意識を育てることは大切なことだと思う。そういう環境で育った人は、他人の見た目に対する許容度も高くなるだろうから、他人の見た目を悪くいわないだろうし、自分と他人の見た目を不必要に比較しないかもしれない。社会から求められるからではなく、自分の心に従ってお洒落を楽しむのであれば、それに使う時間とエネルギーは有意義となる。
他人の尺度ではなく、自分の真の選択によって、自分の見た目を肯定すること。それができれば一番いい。それを阻んでいるのは、ルッキズムを再生産し続ける社会である。
このような問題意識から、筆者は、ルッキズムの問題点を法的に考察している。その詳論は、「ルッキズムと法(前編)(後編)」(近日アップ予定)を参照されたい。
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弁護士。第一東京弁護士会、新八重洲法律事務所所属。
「セクシュアル・マイノリティQ&A」(共著、2016年、弘文堂)、「セクシュアル・マイノリティと暴力」(法学セミナー2017年10月号)、「『女性らしさ』を争点とするべきか――トランスジェンダーの『パス度』を法律論から考える」(法学セミナー2021年5月号)、『詳解LGBT企業法務』(共著、2021年、青林書院)