(第60回)死刑制度の存廃に重要な一石を投じた「永山事件」控訴審判決(木谷明)
【判例時報社提供】
(毎月1回掲載予定)
永山事件控訴審判決
殺人2件、強盗殺人2件、強盗殺人未遂1件等の事案について 一審の死刑判決が破棄され、無期懲役刑が言い渡された事例
――連続ピストル射殺魔事件控訴審判決東京高等裁判所昭和56年8月21日大法廷判決
【判例時報1019号20頁】
1 死刑制度を巡る世界の趨勢(1)と日本の現状
死刑を存置している国は、世界的に見れば今や少数派である。西欧諸国のほか、オーストラリア、ニュージーランド、カナダなどは、いち早く死刑廃止に踏み切ったし、米国でもかなりの州で廃止されている。最近は、アジア、アフリカ、南米諸国にも廃止国がかなり増えている。それに引き換え日本では、「国民の8割以上が死刑存置に賛成している」という理由により、この問題は棚上げされたままである。
2 永山事件控訴審判決の衝撃
しかし、そのような日本においても、かつて、下級審裁判所が「死刑制度の存廃に関する重大な問題」に関し重要な一石を投じたことがある。有名な永山事件控訴審判決(東京高判昭和56年8月21日、判例時報1019号20頁)がそれである。
事案は、当時19歳の少年(永山則夫君、以下「則夫」という。)が、盗みに入った米軍基地内でたまたま入手した拳銃で、1か月足らずの間に次々に合計4人を射殺し、うち2人からは現金などを奪った事実を中心とするもので、「連続ピストル射殺魔事件」として社会を震撼させた。
強盗殺人、殺人などの罪で起訴された則夫は、第一審の法廷で強烈な反抗的態度を示し、弁護人を繰り返し解任するなどしたことから審理が長期化した。しかし、結局、起訴から約10年後死刑を宣告された。
則夫が「全く落ち度のない男性4人」を次々にピストルで射殺したこと自体は明らかであった上、第一審で反省の情さえ示していなかったことなどからみて、多くの人は、控訴審においても当然死刑が維持されるものと予測した。しかし、東京高裁(船田三雄裁判長)は、原判決を破棄した上で則夫に無期懲役を言い渡した(以下、この控訴審判決を「船田判決」という。)。そして、その内容は、死刑制度自体について事実上重大な問題を提起するものであった。
船田判決は、まず、死刑の「極刑としての性質」にかんがみ、その「運用について慎重な考慮が必要」であるとした上で、「ある被告事件について死刑を選択する場合があるとすれば、その事件については如何なる裁判所がその衝にあっても死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限られる」(太字筆者)とし、さらに死刑については、全員一致を必要とする立法論の精神は、「現行法の解釈にあたっても考慮に値する」とまで踏み込んだ。
船田判決は、本件について無期懲役選択を相当とした具体的理由として次の3点、すなわち、①犯行時被告人が未成年であって、しかも劣悪な環境で成育した結果、「精神的な成熟度」が「実質的に18歳未満」と同視し得ること、②その後獄中結婚したことで生じた心境の変化、③獄中から刊行した著作の印税による被害者遺族への慰謝を挙げた。②③ももとより重要であるが、ここで特に注目されるのは①である。船田判決は、則夫の成育環境を「極めて劣悪」と表現しているが、それは、このような抽象的表現だけでは容易に理解され得ないほど極端なものであった。船田判決にもその一端は描写されているが、①堀川恵子『死刑の基準――「永山裁判」が遺したもの』(2009年、日本評論社)及び②同『永山則夫 封印された鑑定記録』(2013年、岩波書店)、さらには②に詳しく紹介されている③石川義博「永山則夫精神鑑定書」(いわゆる石川鑑定)によれば、それは余りにも悲惨である。簡潔に描写できるものではないので、ここではとりあえず「想像を絶し筆舌に尽くしがたいもの」であったと表現しておく。
船田判決は、そのような過酷な成育歴に照らすと、則夫は、犯行当時19歳でありながら、精神的な成熟度は、実質的に(少年法上死刑を科し得ない)「18歳未満の少年」と同視し得ると認めた。そして、「かような劣悪な環境にある被告人に対し、早い機会に救助の手を差しのべることは、国家社会の義務」であって、「被告人にすべてを負担させることは、いかにも片手落ち」であるとしたのである。
しかしながら、船田判決は上告審で破棄された。異例ともいえる「量刑不当」を理由とする検察官の上告に対し、最高裁(第二小法廷)は「原判決破棄・差戻し」の判決をし、最終的に死刑判決が確定してしまったのである。その約7年後、則夫に対する死刑は執行された。
3 船田判決の裏側
船田判決が、死刑の選択が許されるのは「如何なる裁判所がその衝にあっても死刑を選択したであろう程度の情状」がある場合だけである旨厳格な枠をはめた点については、「事実上の死刑廃止論ではないか」という批判が高まり、結果的に最高裁による破棄へとつながった。しかし、この判示が、船田裁判長の過去の苦い(しかし貴重な)経験に基づくものであったことが後に明らかにされる。
堀川・前掲①によれば、船田裁判長は、若いころに扱った重大案件2件について、以下のように語ったという。最初に扱った「バー・メッカ殺人事件」では、自分は無期懲役相当と考えていたが判決は死刑判決となり、それが控訴審・上告審でも維持された。次の「カービン銃事件」では自分は死刑相当と思っていたが、審理途中で転任し、合議体を離れた後に言い渡された判決は無期懲役であったというのである。被告人の生命が、誰に裁判されるかによって左右されてはならない、という船田裁判長の考えは、このような過去の経験に根差すものであった。それは、何人も正面からは反論できない正論というべきではないか。
4 死刑を巡る世界の趨勢(2)と船田判決
船田判決が出されたのは1980年代の初頭である。先に述べたとおり、この時点において、西欧諸国の多くは既に死刑廃止に踏み切っていたが、フランスのミッテラン大統領が世論の強い反対を押し切って廃止の決断をしたのは、船田判決と同じ1981年のことであった。一部で死刑が残っていたイギリスが完全廃止に踏み切ったのは1998年である。死刑廃止の動きはその後も世界的に広がり、今や完全廃止の国だけでも過半数を超え、韓国のような事実上の廃止国(死刑制度はあるが事実上凍結し長期間執行しない国)を加えると、世界の7割を超える国で死刑制度が廃止(ないし、事実上廃止)されている。もし最高裁で船田判決が維持されていたとすれば、わが国でも死刑の存廃を巡る本格的な論戦が展開されたのは必至であったろう。もしかすると、わが国も廃止国の仲間入りをした可能性さえあるのではないか。
5 永山事件上告審判決と私
ここで私は、重大な告白と懺悔をしなければならない。本件上告審判決当時、私は、最高裁調査官として在職していた。本件の調査報告を担当したわけではないが、調査官研究会に出席して意見を述べるチャンスは与えられていた。ところが、まことに申し訳ないことであるが、当時の私は、冤罪について強い問題意識を抱く一方で、死刑問題に関する関心が十分でなかった。そのため、冤罪性に疑問のない永山事件に関する調査官研究会でも、問題点を的確に理解しておらず、「原判決をぜひとも維持すべきだ」という意見を述べることができなかった。最高裁調査官としての職務を全うできなかったことを、心から恥ずかしく思い返している。
死刑は、誤判の場合に取り返しがつかないだけでなく、「国家による殺人」であり「野蛮で残酷」な刑罰という点からも、人道上許されるべきではない。我が国は、いつまでこの問題に頬かぶりし続けるのだろうか。
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1937年生まれ。1963年に判事補任官。最高裁判所調査官、浦和地裁部総括判事などを経て、2000年5月に東京高裁部総括判事を最後に退官。2012年より弁護士。
著書に、『刑事裁判の心――事実認定適正化の方策』(新版、法律文化社、2004年)、『事実認定の適正化――続・刑事裁判の心』(法律文化社、2005年)、『刑事裁判のいのち』(法律文化社、2013年)、『「無罪」を見抜く――裁判官・木谷明の生き方』(岩波書店、2013年)、『違法捜査と冤罪 捜査官! その行為は違法です。』(日本評論社、2021年)など。
週刊モーニングで連載され映画化もされた「イチケイのカラス」(画/浅見理都 取材協力・法律監修 櫻井光政(桜丘法律事務所)、片田真志(古川・片田総合法律事務所))の裁判長は木谷氏をモデルとしている。