『冤罪学』(著:西愛礼)
序章 冤罪を学び、冤罪に学ぶ
「被告人は無罪。」
右から裁判長の声が聞こえた。
証言台に座る被告人はまだ不安そうに目をつぶり、うつむいている。
日本語が分からず、通訳を待っているからだ。
短いスペイン語を聞いた途端、被告人は傍聴席に駆け出し、傍聴に来ていた家族と涙を流して抱き合った。
弁護人は安堵した顔をしているように見える。かたや、検察官は額に手を当てている。
被告人が席に戻るのを待ち、裁判長は判決の宣告を再開する。
当時、私は左陪席裁判官で、この判決文は尊敬する裁判長・右陪席の2人と共に、合議を尽くして書き上げたものだった。誤った有罪判決に陥らず、適切な事実認定を行うことができたと思い、安堵していた。
私は、裁判官室に戻った後、深く考えずに右陪席に質問した。
「無罪判決が出た後って、検証とかしないんですか?」
言葉を発した途端、私はその後もずっと続く不安を抱くことになった。
裁判官は、捜査の過程を知らず、なぜ誤った逮捕や起訴が行われたのか分からない。弁護人も、捜査機関が誤った原因などまでは詳しくは知らないかもしれない。検察官は、未だこの事件が有罪だと考えているかもしれないし、控訴を断念したとしても無実とまでは思っていないかもしれない。冤罪事件を検証しようにも、日々の裁判に追われる法曹三者にそのような余力はないのかもしれない。
そうすると、今回の事件は一切検証されないことになる。この無罪判決の存在すら、法廷にいた私たちしか知らないのかもしれない。しかし、冤罪の原因が検証されないのであれば、再び同じことが起きてしまうだろう。今回の被告人の被った苦痛が、悲劇が、また繰り返されることになる。
私は、短い裁判官人生の中で6人に無罪判決を出した1)。これは、そのうちの1人目の無罪判決である。この判決は一切注目を集めず、新聞にも、判例評釈や裁判例データベースといった記録にも残らなかった。それでも、私の心にはずっと残っている。
「被告人は無罪。」
4年後のことであった2)。
同じ言葉を今度は弁護人席で聞くことになる。
私は裁判官を依願退官し、弁護士になっていた。
その言葉を聞くために頑張ってきたのに、すぐには状況を理解できなかった。
「よっしゃ!!!」
歓声が満員の傍聴席から沸き起こったことで、私はようやく無罪判決が宣告されたことを認識した。隣の弁護人も拳を握りしめて歓声をあげる。少し後れて、傍聴席から「すげえ」という感嘆が漏れる。
被告人は、眼をギュッとつぶって大きな瞬きをしながら、深く頷いていた。裁判を一緒に戦ってきた私には、それが安堵だけではなく、裁判官が正しく判断してくれたことへの感謝からくる所作であることが分かった。彼がどれだけ冤罪で苦しんできたのか、途中から弁護団に参加した私も、4年前より近くで実感していた。思えば、私はいつも冤罪の近くにいた。
「もう二度とこんな事件が起きないようにしたいんです。」
冤罪に陥れられた彼に、私はそう誓った。
「私が冤罪の被害に苦しめられた最後の一人になりたい、そう思っています。」
私の誓いは、彼の希望でもあった。
その日から、どうすれば冤罪を防ぐことができるかを考え続ける日々が始まった。
そして、冤罪の本を書かなければならないと思い至った。
刑事司法関係者は、きっと誰もが一生懸命勉強し、その道で尽力する一流のスペシャリストである。しかし、誰もが冤罪を防ぐべきものであると思いながら、体系的知識として冤罪がどのように生まれるのかを知る術がない。検証されないために冤罪に関する知見が集積されないことに加え、従前の冤罪に関する知見も分野ごとに散在してしまっているからである。将来の冤罪を防ぐためには、冤罪を学び、冤罪から学ばなければならない。そこで、適切な事実認定を裏から支える失敗学として、「冤罪学」というべき冤罪に関する体系的知識を1冊の基本書として集約し、実務家も研究者も含んだ刑事司法関係者の誰もがアクセスできるような、共通の議論の土台を作らなければならないと考えたのである。
こうして本書は生まれた。
「一人で冤罪を作り出すことはできない」
この本を書き始めたころに気付いたことである。
冤罪は、何か一つの誤りによって生まれるものではなく、複数の誤りによって、より複雑な過程を経て生まれる。裁判官、検察官、警察官、弁護士の一人だけではなく、それら複数の過誤が競合しているのだ。この構造の下においては、私を含む誰もが冤罪の創出に関与してしまうおそれがある。一方、冤罪はあってはならないという信念の下、誰もが冤罪と無関係であることを望む。そして、自分は同じ間違いをしないから大丈夫だと思い、冤罪を生んだ原因を特定の個人的・組織的な問題として捉え、個人や組織に対する責任追及に終始する。その結果、冤罪は自身とは全く異なる人たちが生んだ出来事として終結してしまう。
私たちは冤罪と向き合わなければならない。人は誰でも間違える。裁判官、検察官、警察官、弁護士、研究者も皆人間である以上、間違えるのだ。次に冤罪を生んでしまうのは明日の自分かもしれない。そこで大事なことは、刑序章冤罪を学び、冤罪に学ぶ刑事司法関係者全員で過去の冤罪事件から冤罪の原因と再発防止を学ぶことである。
自分も間違えるかもしれないという前提に立つと、冤罪という失敗に関する知識を扱う以上、私を含む刑事司法関係者全員に矢が向けられることになる。それは決して心地よいものではないだろう。この本も、きっと読者の辛抱をもとに読まれることになる。しかし、読者の誰もが冤罪を防ぎたいという気持ちを持っていると信じているからこそ、私は臆せずこの本を世に送り出すことができた。
冤罪を防ぐため、最後までお付き合いいただきたい。
目次
序章 冤罪を学び、冤罪に学ぶ
第1章 冤罪基礎論
第1 冤罪の定義
第2 誤判の定義
第3 冤罪の害悪
第4 刑事裁判における冤罪の位置づけ
第5 冤罪防止と真犯人の不処罰防止
第6 冤罪の件数
1 不起訴・無罪になった冤罪事件の件数
2 起訴・有罪になった冤罪事件の件数
第7 冤罪の類型
1 Type1:事実誤認型冤罪事件
2 Type2:犯人誤認型冤罪事件
3 Type3:犯罪性誤認型冤罪事件
第8 冤罪の研究
1 世界の誤判・冤罪研究
2 日本の誤判・冤罪研究
3 冤罪の研究方法
第2章 冤罪原因論
第1 捜査機関による冤罪創出のメカニズム
1 正義と冤罪─厚労省元局長冤罪事件─
2 捜査活動の限界
3 エラーと誤導証拠関係の形成
4 確証バイアスと見立てに囚われた捜査の危険
5 トンネル・ヴィジョンと誤った見立てへの固執
6 誤った見立てへの固執が生むエラーのエスカレーション
7 捜査機関という組織と誤起訴
8 小括
第2 弁護人による弁護不奏功のメカニズム
1 被告人の有罪を信じてしまう弁護人─足利事件─
2 刑事弁護の限界と困難性
3 無罪弁護の不成立─弁護人も陥るトンネル・ヴィジョン─
4 無罪判決への弁護不達
5 小括
第3 裁判所による誤判のメカニズム
1 誤判への危機感─ある最高裁判事の事件─
2 裁判官の心証形成と事実認定
3 裁判の限界
4 生理的要因と裁判
5 裁判における予断
6 裁判における偏見
7 誤った心証形成と危険な認定手法
8 評議の失敗
9 小括
第4 冤罪の構図
第5 四大冤罪証拠
第6 虚偽自白
1 虚偽自白の現実─湖東記念病院事件─
2 虚偽自白のメカニズム
3 自白強要のメカニズム
4 虚偽自白の誤信
5 小括
第7 共犯者の虚偽供述
1 人を陥れる嘘─プレサンス元社長冤罪事件─
2 共犯者の虚偽供述のメカニズム
3 共犯者に対する虚偽供述の強要
4 共犯者の虚偽供述の誤信
5 小括
第8 目撃供述の誤り
1 どこにでも起こり得る冤罪事件─スナック喧嘩犯人誤認事件─
2 誤った目撃供述の分類
3 記銘のプロセスと誤り
4 保持のプロセスと誤り
5 想起のプロセスと誤り
6 犯人識別手続のプロセスと誤り
7 目撃供述の誤信
8 小括
第9 科学的証拠の誤り
1 科学の生み出す冤罪─山内事件─
2 科学的知見のリスク
3 バイアスやエラーによる鑑定人の誤り
4 科学的証拠の誤信
5 小括
第10 その他の誤導証拠
1 悪性格や類似事実に関する証拠
2 刺激証拠や感情的証拠
3 カメラ・パースペクティブ・バイアス
第1 社会構造による冤罪の再生産
1 冤罪に向き合えない社会
2 冤罪認識の困難性
3 冤罪検証の動機形成の困難性
4 冤罪検証の障壁
5 冤罪検証の不十分性
6 冤罪のフィードバック不足
第12 冤罪の構造
第3章 冤罪予防論
第1 冤罪の予防における3つのポイント
第2 冤罪予防に関する基本的な考え方
第3 リスクマネジメント・クライシスマネジメントによる冤罪予防
1 リスクマネジメントの基本的な考え方
2 冤罪のリスクマネジメント
3 クライシスマネジメントの基本的な考え方
4 過去の冤罪検証の実施状況
5 将来における冤罪検証
第4 組織的・集団的な冤罪予防
1 スイスチーズモデル
2 m-SHELL モデル
3 安全文化
4 捜査機関における不正行為への予防策
5 集団行動における社会的促進
6 法律関係者による協働
第5 個人的・個別的な冤罪予防
1 メタ認知の必要性
2 バイアス等への対抗策
3 ノイズへの対抗策
4 偏見への対抗策
第6 虚偽自白に関する冤罪予防
1 取調べに関する捜査規範
2 取調べに関する手続的規制
3 取調べに関する司法的統制
4 自白に関する注意則
5 過去の自白強要・虚偽自白への再発防止策
6 将来における自白強要・虚偽自白への再発防止策
第7 共犯者の虚偽供述に関する冤罪予防
1 共犯者供述に関する捜査規範と司法的統制
2 共犯者供述に関する注意則
3 将来における共犯者の虚偽供述への再発防止策
第8 目撃供述の誤りに関する冤罪予防
1 目撃者の事情聴取と識別手続における留意事項
2 目撃供述に関する注意則
3 将来における目撃供述の誤りへの再発防止策
第9 科学的証拠の誤りに関する冤罪予防
1 科学的証拠に関する捜査規範
2 DNA 型鑑定に関する留意事項
3 科学的証拠に関する司法的統制
4 科学的証拠に関する注意則
5 科学者から見た科学鑑定の信頼性評価法
6 科学的証拠の誤りへの再発防止策
第10 小括
第4章 冤罪救済論
第1 冤罪の回復不可能性と回復可能性
第2 弁護人による無罪弁護
第3 検察官による不起訴処分・無罪論告・公訴取消
第4 裁判所による無罪判決
第5 再審
1 再審事由
2 再審請求に関する判断手法
3 再審請求審における審理と証拠開示
4 再審公判における審理
第6 冤罪救済支援機関
1 日本国内における冤罪救済支援機関
2 海外における冤罪救済支援機関
第7 刑事補償・費用補償
1 刑事補償
2 費用補償
第8 国家賠償請求訴訟
1 国家賠償法と冤罪
2 裁判官の誤判と国家賠償法
3 捜査機関の違法行為と冤罪に関する国家賠償法上の責任
第9 その他の救済手段
1 名誉回復
2 謝罪
3 死刑再審無罪確定者の年金受給資格回復
第10 残された冤罪救済に関する課題
終章 冤罪を防ぐということ
索引
書誌情報など
- 『冤罪学』
- 西愛礼
- 紙の書籍
- 定価:税込 4,950円(本体価格 4,500円)
- 発刊年月:2023年9月
- ISBN:978-4-535-52754-6
- 判型:A5判
- ページ数:416ページ
脚注
1. | ↑ | 全部無罪5人、一部無罪1人であり、無罪部分は全て第一審で確定した。全て合議体による判断(裁判員裁判の判決が4人分)であり、私自身はごく普通の裁判官であったと考えている。もっとも、複数の無罪判決に関わった経験は、冤罪問題について関心を持つことにつながった。 |
2. | ↑ | 山岸忍『負けへんで──東証一部上場企業社長vs地検特捜部』(文藝春秋、2023年) |