『データで広がる日本ワインの世界—ワインエコノミクス入門』(著:原田喜美枝)

一冊散策| 2024.08.19
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はじめに

『神の雫』という漫画は、世界中のワイン好きが知っているといっても過言ではないだろう。「神の手」もしくは「見えざる手 (invisible hand)」はどうだろうか。高校の「政治・経済」の教科書にも載っているアダム・スミスの有名な言葉であり、さらによく知られているのではないだろうか。各個人が利益を追求することは、社会に対しては何の利益ももたらさないようにみえるけれども、あたかも「神の手」によって導かれるように、社会全体の利益となる望ましい状況が達成されるという経済思想である。市場メカニズムを重視する考え方でもあり、現代の経済学の基礎となっている。

教科書に登場するアダム・スミスは、ロングヘアの白髪で、耳の下で 2 段カールしている肖像画であることからわかるように、18 世紀のイギリス人である。アダム・スミス著の『国富論 (The Wealth of Nations)』というタイトルの書籍も有名である。21 世紀の今も、世界中の図書館に翻訳書や原書、関連書籍がある。

この『国富論』にはブドウ畑やワイン、ワイン市場に関する記述が複数ある。たとえば、第 1 巻の第 11 章「地代について」では、テロワール1)を連想する記述や、ブドウ栽培が新しい土地に拡大することの脅威について記されている2)。経済学の基礎を築いたアダム・スミスの代表的な書籍にワインのテロワールに関連することが書かれているというのは不思議だと思いつつも、書き方から判断するに、彼はテロワールに懐疑的だったのかもしれないという印象も抱く。いずれにしても、経済学的にブドウ畑の価値が認められていたことは事実で、21 世紀に日本語でワインエコノミクスについて語ることを、間接的に応援してくれているように感じる。

本書は、経済学的な観点と入門レベルの統計学の知識を用いて、国際的な視点も取り入れつつ、日本のワインを取り巻く環境について幅広く紹介している。ワイン好きな人の中で経済学や統計学の素養のある人はあまり多くないだろうから、それらを勉強したことがなくてもわかるように解説することを心がけている。

ワインを造るには醸造学について学ぶ必要があるし、「良いワインは良いブドウから」といわれるように、ブドウ栽培の知識も不可欠だろう。そして、ワインを造って売る段階のワイナリー経営には、経済学や経営学の知識が必要となってくる。経理やマーケティングの知識、金融リテラシーがあればなおよいだろう。日本では小規模なワイナリーが爆発的に増えているものの、経営面で課題を抱えるワイナリーも多いようだ。経理については税理士や会計士とは契約を結べばいいが、ワイナリーが増えてくると他と差別化せねばならないし、規模の経済も関係してくることから、コンサルタント的なアドナイスも必要になってくるだろう。日本のワイナリーは小規模なところが多いため、コンサルタント契約をしているところは非常に少なく、ワイナリー内で自社の財務や販売データの分析をしているところも少ないだろう。ワイン好きな経済学者として、日本のワイン産業の成長に貢献したいという思いから、本書をまとめている。

本書の目指す方向は 3 つある。マクロレベルで日本のワイン産業について考察することが第 1 の目的である。マクロ (マクロには「巨大な」という意味があり、一国の政府・企業・家計を一括りにした経済社会全体のことをマクロ経済という) の視点でワイン産業の現在の状況をみる。たとえば、物価や消費、景気や円安の影響など、大きな視点で世の中の動きをみて、ワイン産業への影響について考察する。

ワインを造っている人や、地元のワイナリーを応援したい人などは、ミクロ (ミクロには「微小な」という意味があり、より小さな単位のことを指す) の視点、つまり個別のワイナリーの視点で考えることが多い。森全体をマクロ経済とイメージすれば、その森の中の木 1 本 1 本をみるというのがミクロ経済のイメージとなる。大きな視点で世の中の動きをみて、日本のワイン産業のこれからを考えるという書籍は、筆者の知る限り、邦書としては最初であろう。

第 2 の目的は、日本のワインを応援しようとする人たちや地方自治体に、海外のワイン分析の事例を紹介することである。海外の主要なワイン輸出国では、ブドウ栽培やワイン醸造の側面からだけでなく、経営面からワイナリーをサポートする仕組みが存在するし、社会科学分野でワインやワイナリーを分析している学術論文も多い。こうした仕組や関連研究を日本で紹介することで、増えている小規模ワイナリーの持続的経営について考察することができる。

本書の視点は、主要なワイン輸出国ではワインエコノミクス (Wine Economics) として知られている分野であるが、日本をはじめアジア諸国ではほとんど知られていない。エコノミクスとは経済学であるが、本書を通して、ワインエコノミクスとはどんな分野なのかということを理解していただければと思う。これが第 3 の目的となる。筆者は金融分野の経済学者として職を得て、今も教鞭を執っている。第 2 の研究分野としてワインについて書いていると、批判的な声も漏れ聞こえる。本書を世に送り出すことで、ワイン好きな経済学者として、飲むこと以外に貢献できることがある点を示したい。

* * *

本書は 2 部構成となっている。第 1 部「消費・市場関連のワインエコノミクス」では、マクロの視点から、ワインの消費や市場に関連した事項について考察する。日本の外からワインの世界を眺めてみると、不思議なことがいろいろとある。たとえば、私たちがメディア報道などで目にするワイン消費量のデータは、厳密には消費量ではない。日本人の 1 人当たりのワイン年間消費量は 3 リットルなどと報道される、あれである。なぜ消費量のデータがないのかは第 1 章で説明する。各国のデータを集計し公表している国際機関は多いが、それらのデータがどう集められているかは第 2 部で説明する。

諸外国のワイン消費量の推移をみれば、日本をはじめ、アジアのワイン市場は将来どのくらい有望な市場なのかがみえてくる。世界の主要なワイン輸出国ではワイン消費は減ってきている。そうした国々にとって、アジアのワイン市場は非常に重要なのである。

日本には「国産ワイン」と「日本ワイン」という 2 つの分類が存在する。国内旅行に出れば、旅先では梅ワイン、みかんワイン、キイウイワインなどさまざまなワインをみかけることも多く、ワインは奥が深いと思う人がいるかもしれない。しかし、こうしたワインは諸外国には存在しないか、存在してもワインとは呼ばれない。日本のワインの定義は諸外国とは異なることも、日本のワインにまつわる不思議のひとつである。

第 2 部「貿易関連のワインエコノミクス」では主として、日本で消費されるワインの 3 分の 2 を占める輸入ワインに関する事柄を取り上げる。貿易や貿易協定、統計の作り方、港でかかる関税などの税金の話が出てくる。日本で暮らしていると、お酒にかかる税金は高いというイメージがあるかもしれないが、諸外国と比べれば、ワインをはじめお酒にかかる税金は決して高くない。酒類の消費税は軽減税率の対象とはならず 10%だから十分高い、という考えはあるだろうが、諸外国でワインにかかる税金はかなり高いだけでなく、特殊な税金を課す国もあるのだ。

* * *

各章の関連と概略について説明する。第 1 章「消費と生産の関係」では、日本のワインの消費量は販売量で代替されていて標本調査に基づいていないことや、消費と生産の長期時系列データからわかることなどについて概説している。第 2 章「日本のワイン産業」では、ワイナリー数の推移やワイン生産量の面から日本のワイン産業の不思議な点を考察し、ミクロ経済学や国際金融の観点から産業の持続可能性について考えている。1990 年代初頭のバブル経済崩壊後、「失われた 20 年」や「失われた 30 年」という言葉があるほど、日本経済は停滞し、デフレーション (デフレともいい、一般物価が下落し続けること) が続いた。これは同時に所得が増えなかったことも意味するため、醸造設備など必要な機械を海外から輸入することは、以前より高いものを買うことを意味する。ここに円安の影響もあると、設備投資という買い物の痛みは大きくなる。新規参入ワイナリーのワインの価格設定が高いことの理由についても考察している。

続く第 3 章「ワインの地理的表示」では、日本の地理的表示 (GI) をめぐる動きや、世界の地理的表示について取り上げる。ワイン好きな人は、ワイン産地の名前を聞けば代表的なワインのタイプをイメージすることができるだろう。フランスでいえば、ボルドー地方の赤ワインと聞くと濃い色合いで渋みもある力強い重厚な味わいをイメージするし、ブルゴーニュの赤ワインと聞くとルビー色で比較的タンニンが少なくなめらかな味わいのワインをイメージする。ワイン産地とその産地のワインのイメージがクリアに結びつく裏では、産地の境界設定に関する紛争もある。

ワイナリーを始めるには膨大な資金が必要になる。ワイナリー運営と資金調達という側面から、クラウドファンディングなどによる資金調達について考察しているのが、第 4 章「資金調達とワイン投資」になる。

普段は輸入ワインを飲んでいるという人は多いだろう。輸入ワインは日本で消費されるワインの過半を占める。第 5 章「ワインの貿易」では、貿易財としてのワインについて、歴史的な側面と新しい環境について説明している。アジアのワイン輸入国は、主なワイン輸出国や地域と貿易協定を締結している。その結果、ワインにかかる関税は今やほぼ存在しないが、貿易摩擦という新たな火種もある。

さて、私たちは、公的な統計を信用しているが、ワイン統計の作り方は国によって少々異なる面がある。近代までワインを飲んでこなかったアジア諸国には、ワイン統計にまつわる特有の問題もあるが、国際統計は各国から提供されたデータを利用している。第 6 章「ワインの統計」では、母集団と標本についての説明や、帰属家賃の例を取り上げて国際統計の相違について説明した後、ワイン統計について解説している。最終章である第 7 章「ワインの税金」は、その名のとおり関税や酒税など、アルコールにかかる税金について紹介している。明治時代から続く酒税も、なかなか興味深い税だとわかっていただけると思う。

目次

  • 第1章 消費と生産の関係
  • 第2章 日本のワイン産業
  • 第3章 ワインの地理的表示
  • 第4章 資金調達とワイン投資
  • 第5章 ワインの貿易
  • 第6章 ワインの統計
  • 第7章 ワインの税金

書誌情報など

脚注   [ + ]

1. テロワール (terroir) とは、「ワイン用のブドウなどの産地の、耕作環境に関するあらゆる特性のこと。気候や地形の他、生産者の人的要因なども含めていうことがある」 (『デジタル大辞泉』より)。
2. テロワールのことを指していると思われる記述は次である。「 The vine is more affected by the difference in soils than any other fruit tree. From some it derives a flavour which no culture or management can equal, it is supposed, upon any other. This flavour, real or imaginary, is sometimes peculiar to the produce of a few vineyards.」 (Takashima, Zenya, Select Chapters and Passages from The Wealth of Nations of Adam Smith, Dobunkan, 1955 より抜粋)。訳すと「ブドウは他のどの果樹よりも土壤の違いに影響を受けやすい。ある土地からは、どんな栽培や管理をしても同等のものが得られないとされる独特の風味が生まれる。この風味、実際に存在するかどうかはともかく、ときには数カ所のブドウ園だけの特有のものである」。