(第12回)格言は旅をする:Nosce tē ipsum. Nē quid nimis. Spondē, noxa praestō est/汝自身を知れ. 度を越すなかれ. 誓約と破滅は紙ひとえ.
ラテン語で伝わる格言も, 元はと言えば多くの場合, それより古い古代ギリシア語の格言だったということについては, この連載の中で何度も述べてきました. 一方で, ギリシア語の格言がラテン語に訳され, 近代ヨーロッパの諸言語に入っていったわけですが, 他方で, ギリシア語の格言は東方にも伝わったかもしれないという可能性についてはあまり語られることがないような気がします. 今回は, 古代ギリシアの格言がはるか東方へも旅をしたかもしれないということについて述べてみたいと思います.
エラスムスのラテン語訳
エラスムスはその『格言集 Adagia』の中で, かつて古代ギリシアのデルポイのアポローン神殿の入り口に刻まれていたとされる3つのギリシア語の格言を, それぞれラテン語に訳しながら紹介しています(Adagia 1, vi, 95-97). 表題に掲げたこれら3つの格言はいずれも, ギリシア7賢人(οἱ ἑπτὰ σοφοί) によるものであるとか, 予言の神アポローン自身が語ったものであるとか, あるいは, アポローンが語ったその言葉を7賢人の1人が書き留めたものであるとされていました. あるいは, もしかしたらそれ以前の詩人や哲学者の書物からの引用だったかもしれません. あるいは, 単に民間伝承に由来するものであって, 誰か特定の実在する人物による発想と言える類のものではなかったかもしれません. いずれにせよ確かなことは, かなり古い時代からこれら3つの格言がデルポイのアポローン神殿の入り口に掲げられていたということです.
Nosce tē ipsum
ノスケ テー イプスム/汝自身を知れ(Adagia 1, vi, 95).
このあまりにも有名な格言については, 以前に学名のラテン語の話をした際に「人間の学名」として取り上げました(第3回). 上に述べたように, この Nosce tē ipsum(Γνῶθι σεαυτόν)は, 他の2つの格言と並んで, デルポイのアポローン神殿の石に刻まれていたのですが, エラスムスは, これら3つの格言をギリシア語からラテン語へ翻訳して紹介しながら, これらの格言の趣旨は基本的に同じであると述べています.
エラスムスによれば, 「汝自身を知れ」は, 謙虚(modestia)と中庸(mediocritas)の勧めである, つまり, 私たち(人間)には到達できない偉大すぎるものや私たち(人間)には身分不相応なものを獲得しようと思うなという警句であるとされています. なるほど, 人が不幸になるのは思い上がりや過度の自尊心が原因であると考えられるケースが多いように思われます. その場合,「汝自身を知れ」とは,「身の程を知れと」も言い換えることが出来そうです. ソクラテスは「自分が知っていることは自分が何も知らないということだけだ(hoc ūnum sciō, mē nihil scīre / οἶδα οὐκ εἰδώς)」と言っていました. このソクラテスの言い方に対しては, 「何も知らない」ならば「自分は何も知らない」ということさえ知らないはずだという反論も可能だとは思いますが, このパラドクスはあくまでも, 謙虚さ(modestia)と中庸(mediocritas)の態度を表現したソクラテス流の言い方であると解釈すべきなのかもしれません.
Nosce は動詞 noscō の2人称・現在・命令法, tē は2人称単数の再帰代名詞の対格形, ipsum は強意代名詞 ipse の男性・対格・単数形で, nosce(知りなさい)の直接目的語である tē(あなた自身を, お前自身を)を強調しています(他でもないあなた自身を).
Nē quid nimis
ネー クィド ニミス/度を越すなかれ(Adagia 1, vi, 96).
ギリシア語の原文はΜηδὲν ἄγαν メーデン・アガーン. これは, 暴飲暴食のように健康を損なう恐れのある習慣を慎むべきであるという日常的な意味での節度と中庸のことだけではなく, エラスムスがこれら3つの格言が意味する内容は基本的に同じだと考えていることに倣って解釈する限り, どちらかと言えば, 私たち人間がこの世界の中で自分自身をどのような存在であると考えるかということに関して, 私たちが常に心得ておくべき節度と中庸のことであろうと解釈することができます. 人間が過度に陥るのは, 奢りと慢心が原因です. 例えば, 現代の人類が直面する世界的環境破壊の問題の背景には, 世界は自分たちだけのために存在するのだという奢りと慢心に基づく, 節度と中庸の欠如があると言っても間違いではないと思われます. 人間は神ではありません. 人間が人間に相応しい限界を超えて, 過大な権力と富を求めるやいなや, 神からの神罰が下されるという考え方は古代ギリシア人の基本的な認識でした.
Nē は否定の命令を導く副詞(~な), quid は不定代名詞の中性・単数・対格形, nimis は「過度に」を表す副詞です. 「する, 行う」を意味する動詞の命令形を補って考えれば,「何一つ過度に行うな」と直訳できるフレーズです.
Spondē, noxa praestō est
スポンデー, ノクサ プラエストー エスト/誓約と破滅は紙ひとえ(Adagia 1, vi, 97).
ギリシア語の原文は Ἐγγύα, πάρα δ᾽ἄτη エンギュアー・パラ・ダーテー. 古代アテナイにおいては, 裁判を起こして人を告発する際には, 公に誓約を行い, ポリス(国家)に保証金を支払うことになっていました. 裁判で負ければその保証金は戻ってきません. 節度と中庸を尊重する人ならば, そんな危なっかしいことはしないという考えがあったと思われます. 現代であれば, 人が全財産を喪失するような人生の破滅に陥るのは, 例えば, うっかり他人のために多大な借金の保証人になることを引き受けてしまった場合でしょう. あるいは, 自分が実際に持っている以上の金額を, (必ず返すという保証のもと)借金までして賭けたり, 投資したりした結果, 物事が期待した通りの結果にならなければ, 多額の借金を抱えることになり, 破滅するというような場合でしょう. 経済行為において「保証」という行為がどれだけ危険であるかが分かります. もっと一般化して解釈することが許されるならば, この格言は, たとえノーベル賞を受賞するような偉大な科学者が「誓約」して「保証」してくれたとしても, それは決して信じるべきではないという警句にも聞こえます. なぜなら, 人間の限界, 人智の限界を弁えない「保証」は, ただちに人間の破滅をも意味するからなのです. 例えば, 「原発は安全だ」と「保証」されたことを信じた結果がどのようなものであったかは, すでに我々のよく知るところです.
Spondē は動詞 spondeo「誓約する, 保証する」の2人称単数の命令形, noxa は「損害, 破滅」を表す女性名詞 noxa の主格・単数形, praestō は「手元に, 間近に」を表す副詞, est は存在を表す be動詞 sum の直接法・現在・3人称・単数形です. Spondē は命令ですが, 次に来る結果を表す文と合わせて「誓約するがよい, あるいは保証するがよい,(そんなことをすれば)~」という意味で理解します.
デルポイに格言は他にもたくさんあった
これらのデルポイの格言に関連して興味深いことに, 古代のデルポイのアポロン神殿には, これら3つの格言のほかに 147の格言が石に刻まれて記されていたと信じられていました. というのも, 後5世紀に格言集を編集したストバイオス(Joannes Stobaeus, Ἰωάννης ὁ Στοβαῖος)という人が, それら147の格言を列挙する形で後世に伝えていたからでした.
これら147の格言は西洋古代における格言集としては最も古いものだと思われます. 上記の3つの格言と趣旨の重なる格言も含まれていますが, 日本語訳が見当たらないので, この機会にギリシア語から訳して一挙に紹介しておくことにしましょう. 全部を一気に読む必要はありませんが, テキストの画像をクリックしてみてください.
信州大学人文学部教授。専門は西洋古典学、古代ギリシャ語、ラテン語。
東京大学・青山学院大学非常勤講師。早稲田大学卒業、東京大学修士、フランス国立リモージュ大学博士。
古代ギリシア演劇、特に前5世紀の喜劇詩人アリストパネースに関心を持っています。また、ラテン語の文学言語としての発生と発展の歴史にも関心があり、ヨーロッパ文学の起源を、古代ローマを経て、ホメーロスまで遡って研究しています。著書に、『ラテン語名句小辞典:珠玉の名言名句で味わうラテン語の世界』(研究社、2010年)、『ギリシア喜劇全集 第1巻、第4巻、第8巻、別巻(共著)』(岩波書店、2008-11年)など。