『家裁調査官、こころの森を歩く — 離婚、親権、面会交流、そして少年非行』(著:高島聡子)
はしがき
この本は、『こころの科学』に連載されたコラム「こころの現場から」と、「Web日本評論」に連載された「ただいま調査中! — 家庭裁判所事件案内」というエッセイをまとめたものに、書籍化にあたり、家庭裁判所や家裁調査官に関する解説を付したものです。
まず最初に、「家庭裁判所調査官」という、普段はあまり表舞台に出ることのないマイナーな仕事を取り上げていただき、深く感謝しています。
私たちは、法律の殿堂たる裁判所の中にいる、人間関係諸科学、すなわちこころの問題を扱う組織内専門家です。絡み合うこころをほぐさなければ解決しない家族間の紛争を扱う家事事件や、自分のこころを言葉ではうまく表現できない未成年者の犯罪を扱う少年事件に関わっています。私の仕事は、一言で言えば、ひたすら「会って書く」仕事です。それ自体は特別な仕事ではありませんし、私自身もごく平凡な公務員に過ぎませんが、このような一冊の本をまとめることができたのは、ひとえに家裁にやってくる人たちの人生の重みでしょう。
家裁調査官の面接には、ほかの心理臨床の現場とは異なる、いくつかの特徴があります。
- 「多様であること」調査官の扱う事件は、家事事件、少年事件それぞれに法的背景、難しさや深刻さの異なるさまざまな事件があり、面接の内容や目的はバラエティに富んでいます。
- 「望んで来ないこと」家裁にやってくる人たちの抱える事件は、家族間の紛争、子どもの非行など、決して愉快な出来事ではありませんし、多くの場合、面接の相手は自ら望んで家裁にやってくるわけではありません。
- 「権威的であること」調査官の面接は判断機関である家庭裁判所の権威を背景に行われるものであり、そういった意味で、クライエントとカウンセラーの自発的かつ任意の契約によって行われるカウンセリングの面接とは異なります。
これらの特徴から生じる独特さ、不思議さは、この本にまとめたさまざまなエピソードを読んでいただくことで垣間見えるかと思います。
これは私の勝手なイメージですが、家事事件の当事者や、少年やその保護者は、暗い森の中の道を歩いているようなものだと思うことがあります。中でも、家裁という場は、その道程において大きな岐路です。この先、どちらの道を行けばいいのか。離婚するのか、しないのか。もう二度と罪を犯さないのか。どれもこれも、これからの人生を左右する重大な選択です。そしてこれまでの夫婦関係や親子関係、大げさに言えば自分の歩んできた人生を問われる選択でもあります。すぐに問題が解決する手立てや、手っ取り早い正解があるわけではありません。彼らの迷い込んだ森は暗く、行く手は見えません。明るく見えるほうに歩こうとしても、時には霧が立ち込めて、振り返っても自分が歩いてきた道すら見えなくなることもあります。
ジブリ映画『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督、2001年)の終盤に登場する、銭婆の森の歩くランプを知っていますか? 当事者や少年が森の中の道を歩いている旅人だとすれば、私たち調査官は、このランプのような存在かもしれません。森の中、ランプはそっと分かれ道に佇み、道に迷っている人の行く手や、転びそうな木の根っこを照らして少しだけ伴走します。旅人が森を出ていく時には手を振って見送ります。
私はこの仕事に就いてから、たくさんの人たちから話を聞いてきました。いろいろなこころに出会います。人間のこころというものは本当に複雑で奥が深く、不思議なものです。表に見えているもの、隠れているもの。暗い森だと思っていても、日が差すと風景が一変するように、おばけだと思っていたらただの影だったり、枯れた木の茂みのように見えても、近づくと花が芽吹いていたり。森の中では、風が吹くと、遠くから木々を渡って近づいてくる風の音が聞こえるように、普段は見えないものが形になって見えることもあります。時には、生命力のある濃い緑に飲み込まれそうになることもあるでしょう。
この本の『こころの森を歩く』というタイトルには、当事者や少年が歩いている、そんな森の中を一緒に歩くというイメージを込めました。森に迷い込んだ旅人は心細く、不安だろうと思います。中には投げやりになったり、誰かに対して攻撃的になったりする人もいます。それでも、歩き続ければいつかは森の出口にたどりつけるはずですし、森を出た先の行く手に、明るい野原が広がっていますようにと願わずにはいられません。
まず最初に大事なお断りを。一人の家裁調査官の目を通し、家庭裁判所の事件に現れるこころの諸相を紹介する、というのがこのエッセイですから、文中の見解はすべて私個人のものであって、調査官集団や、ましては家裁全体を代表する公的なものではありません。そして、裁判所職員である家裁調査官には、守秘義務があり、この本で取り上げる話はすべて、家裁で取り扱う事件の特徴を踏まえて作成した架空のものです。家裁に係属した事件を参考にはしていますが、複数の事例の要素をつなぎ合わせたり、登場人物の性別年齢を変えたりして、もとの事件はほとんど原型をとどめていません。ただ、その結果、まったく別の誰かの事件にそっくりになってしまったということがあるかもしれません。「家族」が、一組の夫婦と未成熟子の組み合わせである以上、そのバリエーションには当然限界があり、家裁での紛争も少年の起こす事件にも、さほど種類があるわけではないのです。なので、この本に登場するさまざまなお話も、もしかしたら、あなたの知っている誰かの場合に似ているかもしれませんが、それはすべて間違いなく「ハズレ」なので、どうぞご安心を。
ただし、裁判手続や事件の展開はできるだけ正確に、嘘や誇張、違和感がないように心がけました。そのため、読者のみなさんが期待するような少年の劇的な立ち直りや、不誠実な当事者がコテンパンにやられるようなスカッとする展開はなく、一種煮え切らない、つまらないと思われることがあるかもしれません。
ごめんなさい、家裁の事件はそんな簡単に解決はしないのです。
さあ、それでは私たちと一緒に、「こころの森」を歩いてみましょう。
あとがき — 「家庭に光を、少年に愛を」
家庭裁判所が設立されたのは昭和24(1949)年1月1日。その時に掲げられたこの言葉を、家裁に勤める私たちは、今も大事に思っています(現在の標語は「家庭に平和を、少年に希望を」となっています)。
戦後の民法改正や家裁の創設自体、大きな変化の一つであったと思いますが、世の中の考え方や法律は時代につれて移り変わっていくものでもあります。私が採用されてからの30年間でも、成年後見制度のスタート、人事訴訟事件の家裁移管、少年法の改正(原則検送の導入、特定少年の新設)、ウェブ調停の導入など、大きな変化がいくつもありました。今もまた、共同親権の導入という大きな変化を控えています。これからも、今まで当然と思っていたことが変わり、世の中の考え方や裁判所の判断、家族の在り方そのものが変わっていくということもあるでしょう。この本に書かれていることが、10年先、20年先には「今とは違うな」と思われることも出てくるでしょう。
それでも、どんなに世の中や法律が変わっても、一つひとつの事件を通して、中立公正であること、少年が罪を犯さずに大人になる道筋を探すこと、子どもが笑っている可能性を探ること。家庭裁判所に与えられた役割や、私たち調査官が目指すところは、創設時から変わることはありません。どれほど光や愛に近づけたかわかりませんが、自分が正しいと思える価値観に従って仕事を続けてこられたことは、本当に幸運なことであったと思います。
この本を手に取られた方が、家庭裁判所という場所に、家裁調査官という仕事に興味をもってくださったとしたら、望外の喜びです。
最後に、この本を書くことができたのは、事件を通じて出会ったすべての少年、保護者、当事者、子どもたちのおかげです。私はあなたたちから、多くのことを教えられました。みなさまが歩いていく道が、どうか明るいものでありますように。
目次
第1部 森の入口 — 夫婦・親子に関する事件(1)
1 なぜ家事と少年なのか
2 交換日記 — 夫婦関係調整
3 取るだけ育休の表裏 — 子の監護者の指定
4 四八時間 — 面会交流
5 ケースウォーカー — 子の監護者の指定
6 精霊船 — 子の引渡し
7 秘密の小部屋 — 面会交流
8 ウェブはじめました — 親権者変更
家裁調査官のお仕事Q&Aコラム(1)/チーム裁判所 — 裁判所の中の人たち
第2部 にぎやかな森 — 少年事件
9 トカゲの尻尾 — 特殊詐欺
10 沼 — 大麻取締法違反
11 知る、わかる、支える — 不同意わいせつ
12 ガラスの割れる音 — 器物損壊
13 僕ver.2.0 — 児童ポルノ製造
14 リセット — 殺人未遂
家裁調査官のお仕事Q&Aコラム(2)/となりは何をする人ぞ — 裁判所の周辺の人たち
第3部 森の中の小川 — 民法、戸籍法、特別法に関わる審判事件
15 シンデレラ — 特別養子縁組
16 バースデーケーキ — 就籍
17 帳尻を合わせる — 成年後見
18 いやなこと — 児童福祉法二八条一項
19 五千通りの人生 — 児童福祉法二八条一項
家裁調査官のお仕事Q&Aコラム(3)/そだちとこころ — 調査官の採用、待遇
第4部 森の深奥 — 夫婦・親子に関する事件(2)
20 クモの巣 — 子の監護者の指定、引渡し
21 地雷 — 夫婦関係調整
22 「はいけい、さいばん官さま」 — 子の監護者の指定、引渡し
23 ルビンの壺 — 面会交流(前編)
24 わたしのきもち — 面会交流(後編)
25 ロスト(喪失) — 離婚等(人事訴訟・控訴審)
26 コウモリ(前編) — 傷害
27 コウモリ(後編) — 夫婦関係調整
あとがき — 「家庭に光を、少年に愛を」
書誌情報
- 高島聡子 著
- 紙の書籍
- 定価:税込 1,980円(本体価格 1,800円)
- 発刊年月:2024年11月
- ISBN:978-4-535-56437-4
- 判型:四六判
- ページ数:232ページ
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