『傷はそこにある — 交差する逆境・横断するケア』(著:大嶋栄子)
[プロローグ]Homeをつくる — 女性たちが安全でいられる場所
「それいゆ」と名づけた女性たちの新しい居場所を、2002年9月に札幌市白石区で始めた。
当時はまだ法人格もなく、立ち上げ準備委員会の事務所は、私の自宅住所だった。施設運営の財源として、精神障害者小規模作業所とグループホームに対する助成金を札幌市に申請したが、認可には一定期間の運営実績が必要なこともあり、初めの1年は寄付金やスタートアップ助成を頼りに、たった2名のスタッフの給与を出すのも精一杯という、本当に小さな団体だった。
私は大学で社会福祉学を学び、卒業後は精神科病院でソーシャルワーカーとして働いていたが、数年ほどして貯蓄ができたら辞めて、大学院に進学しようと考えていた。というのも、大学生の時に米国で受けたソーシャルワークの授業がとても充実していて、奨学金が終わるのを機に日本へ戻り卒業して就職したものの、インターンシップを通じてもっと学びたいという気持ちが高まっていたからだ。
そんなほんの「腰掛け気分」で入ってみた精神科病院というフィールドだったが、入職して3年目となる1990年に大きな転機が訪れた。依存症専門病棟を担当するよう命じられたのだ。アディクション問題との出会いである。
正直なところ、依存症がなぜ精神科病院で治療の対象となるのか、当時の私はまったくピンとこなかった。その頃、依存症治療の中心はアルコール依存で、患者のほとんどが中高年男性だった。依存症病棟では一期治療としてアルコールで傷んだ身体の管理、二期治療では疾患教育と集団療法、そして自助グループへの橋渡しを行っていた。しかし、こうした専門治療を終えて退院した人の7割が断酒を継続できないという現実があり、私は、彼らには「やる気」がないのだと思っていた。そもそも彼らはアルコール依存症と診断されることに反発し、治療関係をつくるのも一苦労だ。自分の無知を棚に上げ、私は“おじさん”たちを見ながら「好きで酒を飲んで依存症になったのに、まだ懲りないの」というくらいの気持ちでいた。ただ、依存症専門病棟(外来も含め)には精神科医を頂点としたヒエラルキーがなく、すべてのスタッフがそれぞれの専門性を活かしてチームで患者にかかわる点は、それまで体験したものとまったく違っていた。
依存症を知るため、私はアルコール依存症者の自助グループに足を運ぶことにした。退院して地域で暮らしながら酒をやめている人たちの話を聞くことから始めるしかないと考えたのだ。そこで初めて、彼らが飲む背景にどのような暮らしや人生があったかを聞いた。また依存症から解放されるには単に酒をやめればよいのではなく、酒を必要とする考え方や生き方を変えていく必要があることを教わった。そして回復の道筋は12の段階として示されているのだという。少し、“おじさん”たちへの眼差しが変化した。
依存症病棟には、数は少ないものの女性がいた。多くは中年の既婚女性だが、中には摂食障害とアルコール依存の併存、また処方薬とアルコールなど依存対象が複数ある若年女性もみられた。なぜ彼女たちはアルコールをはじめいろいろなものを乱用し依存することになったのだろう。治療プログラムの合間を見つけては病室へ行き、彼女たちの話を聞かせてもらうことにした。
初めは当たり障りない話だったと思うが、時が経つにつれて彼女たちは壮絶な暴力被害について語り始めた。幼少期の虐待だけでなく、学校や職場、そしてパートナーからの性被害等々。ちょうどこの時期は阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件など日本社会を大きく揺るがす出来事が続くのだが、ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』1)が訳出された頃でもあった。また依存症者のいる家庭を典型とする、機能不全家族で成長した「アダルトチルドレン」に関する書籍の出版も重なり、彼女たちの語りを読み解く枠組みを次々と与えられたように感じた私は、一気に依存症の支援に引き寄せられることになった。
この疾患に対するスティグマは、どこまでも個人的な事柄として捉えられ非難されることに始まり、当事者本人にもそれが内面化されることで完成する。しかし依存症当事者、とくに女性の話を聞くようになってから、彼女たちにとってアルコールや薬物の乱用、そして食行動への耽溺が心身の痛みを緩和するものとして、いわば“自己治療的”に選択されていることを知った。さらに、女性依存症者の治療や援助に中高年男性の治療モデルをそのまま援用することで、不可視化され取りこぼされるものがあるのではないかと感じるようになった。
女性が暴力を受けるような環境にある時、まずはその場から離れることが奨励される。けれど彼女たちの話を聞くと問題は単純でなく、「暴力を受ける自分に問題があるのだ」と思わされる関係性が暮らしの中に張りめぐらされている。だから暴力被害について誰かに話すのは私たちが想像するほど簡単ではないのだ。また話したとしても、経済的な理由などによりその場から離れることが難しい場合、暴力を暴力として認識すること自体が非常につらい。実際のところ、彼女たちが治療を終えて安全に暮らせる場所が社会にはほとんど見当たらなかった。結果として、彼女たちもまたその多くが入退院を繰り返し、ある人は亡くなり、ある人は男性関係に逃避し行方知れずとなった。しかもそれらは彼女たち個人の問題として片づけられてしまう。
しかしそれは、本当に彼女たち個人の問題だといえるのだろうか。
「腰掛け気分」で働き出した私は、依存症という疾患が個人の課題というよりジェンダーをはじめ多くの社会的事象と結びついていることを知った。そのことに気づいてから十年以上が経過した頃、医療機関で自分ができることはやり尽くしたように感じ、地域に自分のフィールドを移し、女性が依存症を発症する機序や男性とは異なる回復過程、そして必要な援助について学びながらそれを研究としてまとめようと、大学院へ進学することにした。ただこの時、自分が新しい場を立ち上げることは想定していなかった。
病院を辞めてすぐ、お世話になった精神科医から「自分がかかわる依存症者の回復支援施設で女性のサポートを始めることになったが、手伝ってみないか」と誘われ、引き受けた。これまでは精神科病院から男性患者をその施設へつなげる仕事をしていたが、今度は逆に地域で引き受ける側を体験することになった。その精神科医のかかわる法人では、女性利用者が生活するグループホームと通所する施設の2ヵ所を、男性のそれとは別に新設したいということで、その準備と通所施設で行うプログラムの考案やスタッフの採用などを手伝い、認可申請も行った。施設運営の滑り出しは順調で、札幌市内だけでなく、近隣からも少しずつ利用者が集まるようになった。
しかし2年ほど経過し、ある問題に直面した。女性はアルコールに限らず多様な依存対象をもつが、処遇方針をめぐって、男性スタッフとの間で考えの相違が表面化したのだ。私が持ち込んだ、ジェンダーのもたらす格差や不平等に目を向けるプログラム、食事に対する考え方などは、従来の男性中心モデルとは異なる。新しいアプローチはそれまでのものと相違点が多く、利用者には受け入れられたが、男性スタッフは不安を感じていた。彼らの主張は「依存症に性差などない、ミーティングを中心とし自助グループに通わせるのが自分たちの役割だ」という点に集約される。女性に特化したプログラムは不要という彼らの考えと折り合いをつけるのは難しそうに思えた。
ちょうどその頃、私は女性依存症者についての研究を修士論文として提出し、そこで得られた知見を彼女たちの支援に活かそうと考えていたので、まず彼女たちに事情を説明し、プログラムの存続について尋ねることにした。すると女性だけの場所ができたことの意味は、私が考えていた以上に大きかったことが見えてきた。男性からの評価を気にして発言を控えなくていい、その場で期待されるジェンダー役割をとらずにありのままの自分でいられるなど、確実に居場所の意味があると感じた。
一通りみんなに話してもらった後で短い沈黙があった。やがて一人の利用者が口を開いた。
「新しくまた女性たちの場所を始めたらいいんじゃない」
思わぬ言葉に驚きながらも、私も含めその場にいた全員が「それがいいね」とうなずきあった。まだ具体的なことは何一つ決まっていなかったのに、何だか新しいことが始められそうだと思った。施設にはさっそく退職を伝え、それから急いで仕事仲間たちに声をかけたところ、「一緒にやろう」と言ってくれた。立ち上げ準備委員会ができ、グループホームになる一軒家を見つけ、昼間の居場所も決まった。そして、新しくまた女性たちの場所をつくろうと言ってくれた彼女たちとともに、「それいゆ」は始まった。
「それいゆ」はフランス語で太陽の意味。女性たちの中にある快復の種がゆっくりと芽吹くのに必要なお日様のような存在でありたいという願いをこめて名づけた。そして支援の対象を依存症に限定せず、「さまざまな被害体験を背景に、精神的不調や障害を抱える女性」とした。日本で初めて、トラウマを抱える女性の生活を包括的に、かつ長いスパンで支える場所として「それいゆ」はスタートした。ソーシャルワーカーが機関を離れ地域で開業すること自体も、当時はまだ珍しいことだったように思う。
2004年にNPO法人リカバリーとして認証され、20年が経過した。
現在は10名のスタッフを抱え、障害者総合支援法に基づく事業を中心にしながら大小さまざまな助成金事業を手掛けてきた。支援の対象に変化はないが、被害体験がもたらす精神的不調や障害の表れ方は社会の状況を反映し刻々と変化する。その意味で私たちの仕事は、ソーシャルワークを基軸としつつさまざまな領域を横断し、同時にソーシャルワークという枠組みをも越境することがある。トラウマを抱え、困難さの掛け合わせで複雑な状況にある人たちに使える制度がない、機関の限界だからという理由で、引き受けるのを諦めかけることは多い。だがいろいろな人と知恵を出し合い、制度の枠を越え互いの仕事を横断的に編みなおそうとする時、転機が訪れるように思う。
私はトラウマを抱える人たちと付き合う時、いつも“Home”を頭に思い描く。“Home”とは、屋根があって住める場、以上のものを指す。自分のベースとなる場所、自分がいつでも立ち返ることのできる場所。人はそれを心に思い描ける時、どのような困難にあっても生きていけるように思える。
本書はリカバリーでのフィールドワークを通して考え、学び、発見したことを論考としてまとめたものだ。雑誌『こころの科学』での連載に加筆修正を施したものが中心だが、ほかの媒体に発表した論考も収録し、さらに書き下ろしを加えた。
本書は以下のような三部構成としている。
「Ⅰ 交差する逆境 — 愛着・トラウマ・アディクション」では、重複した逆境によって織りなされる女性が抱える困難の全体像を援助者がつかむ難しさにふれると同時に、背後にある社会課題に目を向けていく重要性に関して、6つの論考でその詳細を述べている。
「Ⅱ 横断するケア — ジェンダーと居場所のポリティクス」では、対人援助の仕事において必須とされるジェンダー感覚をめぐる5つの論考を収録した。残念ながら現在、私の専門であるソーシャルワーク養成過程でジェンダーが十分に学べる状況にはないが、一方で人種や階級、あるいは年齢といったそれ以外の属性によって掛け合わされる困難さに着目する、インターセクショナリティの概念に依って立つ反抑圧的ソーシャルワークが日本でも紹介されている。またケアに関して、その多くが女性に期待されること、ケアは愛を仲立ちとすると捉えられることで逆作用(支配への転用)が起こり得ることなど、その両義性についてもふれている。
続く[counterpoint]は、〈越境〉と〈横断〉をキーワードに、既存のソーシャルワーク援助から大きくはみ出すことを提唱する短いエッセイである。私たちが出会う個人的な問題の多くが社会的な事柄であることは認識されつつある一方で、多くの社会制度とその機能は分断されたまま架橋されることなく、解決に困難を抱える現実がある。ソーシャルワークが社会正義の実現を目指す時、どのように問題の複合性を問い、その解決に向けた制度側の変容を迫ることができるのか。私も含めソーシャルワークを実践するすべての人への呼びかけとして読んでいただけたらと思う。
そして「Ⅲ 塀の中と外はつながるのか — 女子刑務所プロジェクト」では、2019年から5年間に及ぶ「女子依存症回復支援モデル」の事業受託からプログラムの目的や取り組み、そして対象者が出所した後の伴走支援によって見えてきた現実を6つの論考にまとめている。ここでは矯正施設で始まった新しい取り組みがもたらした変化と同時に、その限界にもふれている。塀の中と外をつなげるためには多くの制度的な障壁と出会ったが、まさにここでも〈越境〉や〈横断〉のためのソーシャルワークが試された。
熊谷晋一郎さんとの対談「ケアの倫理と公共圏の問い」は、私が編集委員を務めた雑誌『臨床心理学』の特集に掲載されたものだが、本書のタイトル『傷はそこにある』と密接に関連しており、まだ語られていないトラウマについて取り上げたものであることから、巻末に再録した。
それぞれの論考は初出より時間が経過していることもあり、必ずしも時系列になっていない点があることをお断りしておく。できる限り読みやすくなるよう整えたが、それぞれに完結している論考もあるので、気になったところからお読みいただければと思う。
本書は私にとって2冊目の単著となる。ソーシャルワークの面白さ、ソーシャルワークが対象とする困難を抱える人が生きていくことの過酷さ、しかし同時に、人とその環境とが相互に織りなす作用により、それでも生きていくことの尊さを感じてもらえたら嬉しい。
なお本書に登場する事例は、できる限り本人に目を通してもらい、公表の許可を得た。許可を得るのが難しい場合は、個人を特定できないよう改変している。
目次
[プロローグ]Homeをつくる — 女性たちが安全でいられる場所
【Ⅰ 交差する逆境 — 愛着・トラウマ・アディクション】
第1章 安全基地をつくる
再使用と愛着/安全基地をつくりなおす/愛着と脱愛着のはざまで
第2章 逆境を生きる
暴力とアディクション/安心できる場の不足/愛着形成をどう支えるか/愛着形成を奪われるということ/逆境を生きる
第3章 傷はそこにある — 意味づけられない経験と声
救急車に乗って/ねじれた援助希求とトラウマ/意味づけられない経験と声解釈的不正義/そこにある傷
第4章 通過型支援が行き詰まる
リカバリーのミッション/通過型支援の行き詰まり/誰もが働いて生きるソーシャルビジネスという視点
第5章 ハームリダクションという実践 — 環境に介入する
届かない声/ハームリダクションとは/自分の居場所を見つける/金平糖のような市販薬
第6章 愛着形成をどう支えるのか
グループホームでの子育て/再び乳児院へ/Aの死
【Ⅱ 横断するケア — ジェンダーと居場所のポリティクス】
第7章 居場所をめぐる問い — ジェンダーについて知るところから
見えない存在/居場所の乱立と形骸化/Colaboの支援が示したこと/支援現場のポリティクス
第8章 愛を期待はしない — ケアとジェンダーの視点から
ケアをめぐる犠牲と沈黙/子どもを産まない/ケアを編みなおす社会へ
第9章 ねじれる援助希求 — ケアの両義性
援助希求あるいはニーズという言葉の前に/ケアにおける四つの権利 — ケアの人権アプローチ/ケアは望まれていないのか — ねじれた“助けて”の表出ケアの両義性
第10章 抑圧の連鎖に立ち向かう — 反抑圧的ソーシャルワーク
眼差しを共有する/反抑圧的ソーシャルワーク/逆境が重なる/トラウマと闘うツール
第11章 “食べる”というケア
「見ざる、聞かざる、言わざる」に抗う/「助けて」が言えない社会の中で/トラウマと闘うツールを実践する/あなたは一人ではない
[counterpoint]〈越境〉と〈横断〉のソーシャルワーク — 交差する困難・横断する援助
【Ⅲ 塀の中と外はつながるのか — 女子刑務所プロジェクト】
第12章 再犯の意味を問い続ける
情状証人に立つ/高齢受刑者の現状と支援者が感じている課題/Sさんへの支援を振り返る/「自分ごと」として向き合う
第13章 「女子依存症回復支援モデル」のスタート
女性受刑者処遇の変化/刑務所「処遇」が抱える限界/刑事施設における薬物事犯者への新しい処遇/女子依存症回復支援モデル
第14章 私について、私が知る
女子依存症回復支援センター/依存症回復支援プログラムの目的/コア・プログラム『回復の道しるべ』/さまざまなプログラムの基本 — 私について、私が知る
第15章 自分を受け入れ、現実と向き合う
向き合えない現実/自分を受け入れるまで/依存先の少なさと依存の深さシラフはつらい — 塀の中と外のギャップ
第16章 変えられるものと変えられないもの
何が断薬に影響するのか/話すな、信じるな、感じるな/家族との関係性女性への抑圧/弱者のままで尊重される
第17章 塀の外で — センター修了生と共に“転がる”
思うようにならない現実/困りごとは待ったなし/依存先は広がったのか共に転がる
対談 ケアの倫理と公共圏の問い ……大嶋栄子×熊谷晋一郎
二つの政治 — 感情が権利を侵食する/回帰する亡霊 — 自己責任論の引力変革の序曲 — 忖度と包摂の外部へ/聴き取られなかった言葉 — 連帯とエンパワメント/〈声〉を掬う — 認識的不正義と解釈的周縁化/「表現」と共に — 忘却された経験/ケアの倫理と公共圏の問い/来たるべきケアへ
おわりに — 傷と共に生きる
書誌情報
- 大嶋 栄子著
- 紙の書籍
- 定価:税込 2,640円(本体価格 2,400円)
- 発刊年月:2024年12月
- ISBN:978-4-535-98540-7
- 判型:四六判
- ページ数:296ページ
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脚注
1. | ↑ | ジュディス・L・ハーマン(中井久夫訳)『心的外傷と回復』みすず書房、1996年(増補新版:中井久夫、阿部大樹訳、2023年)。現在まで長く読み継がれトラウマの全体像をつかむうえで代表的な著作である。また1994年の転落事故以来、引退の状況にあったハーマンが最近上梓した『真実と修復 — 暴力被害者にとっての謝罪・補償・再発防止策』(阿部大樹訳、みすず書房、2024年)も注目に値する。 |