(第2回)法は善および衡平の術である
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。
(不定期更新)
Jūs est ars bonī et aequī.
2世紀のローマ法学者ケルススの文章で、6世紀には学説として法文にまでなっている。
2~3世紀の法学者ウルピアーヌスにも、同じように法文化された命題として、「正義は各人に彼自身の権利を分配する恒常不断の意思である。法の掟は、誠実に生きること、他人を害しないこと、各人に彼自身のものを分配すること、これらである( Jūstitia est cōnstāns et perpetua voluntās jūs suum cuique tribuendī. Jūris praecepta sunt haec : honestē vīvere, alterum nōn laedere, suum cuique tribuere. )」というものがある。
さて、「法の本質とは何か」については、人間の生きていた時代のレベルや情況に応じて、それぞれにちがった考え方があった。今日においても、法本質論については定説など存在しない。法哲学はつねにこのテーマに取り組んできたとも言える。ローマの場合は、一応さきの2つの命題によって法の本質論が要約されていると見てよいが、実は、これらは、ローマ人固有の物の考え方の結晶と言うよりも、むしろ、ギリシアのストア派の哲学思想のうけうりである。ギリシアにももちろん法があり、法思想の点では優れたものを生みだしたとは言え、言葉の厳密な意味における法学は育たなかった。これに反して、ローマには正真正銘の法学が確立された(法学の歴史、また、そこで決定的な役割を担った法学者については、拙稿「ローマ法学」〈東大出版会『法学史』所収〉を参照していただきたい)。ギリシアの法理念はローマの法実務にある程度まではうけつがれて、具体化され、その結果、ギリシア・ローマ的所産はあわせて西洋古典期の法思想をかたちづくり、後代のヨーロッパ法の源泉の1つとなった。
ところで、この格言は、現代の欧米法の法格言としてもしばしば引用される。とりわけ、ローマ法と同質の法構造を部分的に持つ英米法系の分野では、これは、現在でも、一定程度において、実践的意味すらなお保有しつづけている。
よく知られているように、わが国は、明治・大正・昭和の3時代1世紀間に、法の分野において事情は少しずつ異なるが、フランス法、ドイツ法、アメリカ法を順次継受して、少なくとも表面的にはこれらをそれなりに消化してきたのであるが、この点からして、われわれが現在用いている日本近代法の基礎となっている法思想は、そのシステム(建前=タテマエ・以後よく援用されるこの概念については拙著『法のタテマエとホンネ』を参照していただきたい)の側面で考えていくかぎり、結局のところ、はるかギリシア・ローマにまで行きつくことになる。「ローマ法」が日本における基礎法学の一分野としての処遇を今もうけていることはこの点からも説明できよう。
しかし、そのような外来の巨大で精緻なシステム・法体系のために背後へとおしやられ、あるいはそれに踏みしだかれているような日本人固有の法思想――これは奈良時代に律令が中国からとりいれられたことにより部分的に衝撃をうけて変化が生じたことをのぞけば、ヨーロッパ法文化と十分太刀打ちできるだけの1000年以上もの長い歴史を持つ立派なものである――には、どうやら、さきの格言に示された欧米風の法思想とは一味違ったところがあるように思われる。法学部のカリキュラムでは、タテマエとしての日本実定法(つまり象徴的には六法)の教育に圧倒的なエネルギーが費やされ、日本固有の法に関する考え方などについて教えられるのは、日本法制史、法社会学の講義においてぐらいであるが、しかし、法学部を卒業して実社会に入ると、そういったタテマエ的知識は、職業的法律専門家の場合をのぞいてそれほど役に立たず、法学士殿は、一転してドロドロした無定型な規範のとりしきる日常世界でもみくちゃにされる。筆者としては、諸君には、法学を学びはじめる前の純真無垢な時期に、日本の伝統的な法あるいは法文化の現実の姿をしっかりと心に刻んでもらいたいと思う。そうすれば、卒業後に法に対して幻滅感を抱くこともないだろうからである。「西洋法」学入門だけでなくて、「日本法」学入門も必要なのではないかと考える次第である。以下にその一部を展開してみたい。