元号は自明か?:元号法制化と戦後日本社会(俵義文)
2019年4月1日、新元号が発表され、5月1日の天皇代替わりと同時に元号の改定が行われました。中国・漢の武帝時代にはじまり、皇帝時間支配権に基づき定められ、服属の証として使用されていたとされる元号。現在の日本では、元号の使用については法律に定めはありませんが、天皇のおくりな以外にも、たんなる時代の区切りとして日常的に使用され続けています。
戦前、天皇の権威を支える役割を担い、敗戦の際には日本国憲法と相容れないとして、一度は法的根拠を失った元号。「子どもと教科書全国ネット21」代表委員をつとめる俵義文(たわら・よしふみ)氏に、戦後日本における象徴天皇制と元号との関係を、元号法制化運動を中心に追っていただきました。
はじめに
2019年4月~5月の「平成」から「令和」への改元騒ぎは異常としか言いようのないものだった。日本は憲法が定めるように国民主権の国であるのに、あたかも「天皇主権」の国であるかのように、政府もマスメディアも振舞っていた。
元号とは政治的紀年法の一つで、中国を中心とする漢字文化圏に広がったもので、年号と同義語で使用される。中国では年号は、「皇帝が時間を支配するもの」として制定されていた。他の論文でも詳しく述べられているように、明治以降から1945年の敗戦までの元号は、まさに天皇が時間をも支配するものとして機能してきた。この間の改元・代替わりの騒ぎは、再び天皇が時間を支配するかのごときであった、と言うのは言い過ぎだろうか。
私は、このような意味があり、天皇制と深く結びついている元号には反対で、可能な限り元号を使用しないようにしてきたが、最近、役所関係の書類などでは元号の使用が強制されることが多く、その都度「個人的な抵抗」を続けている。中国や韓国でも年号は使わなくなり、元号を法制化してまで国民に使用させているのは世界中で日本だけである。
1 明治維新と一世一元
明治維新から1945年の敗戦までの元号については他の論文で詳述されているが、私もここで簡単に振り返っておきたい。
日本の元号はもともと、天皇の即位だけではなく、めでたいことや災害などの不吉なことがあるたびに改められていた。天皇一代の間に何度も改元されることがあった。現在のように、天皇が代替わりするときだけ元号を変える(改元)ようになったのは明治時代以降である。明治維新によって徳川に代わった新政府は、天皇を「神」とし国民を臣民(天皇の家来)とする天皇制国家として国民支配を行い、「近代化」をめざした。そのために天皇を絶対化・神聖化するために、1889年2月11日に大日本帝国憲法とともに制定された皇室典範と1909年2月11日に公布された登極令(皇室令第1号)によって、一人の天皇で一つの元号とする「一世一元」を法制化し、元号は天皇統治の象徴となったのである。この「一世一元」は、明治、大正、昭和、平成と維持されてきた。
2 日本の敗戦:戦後改革と元号の危機
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受託し、アジア太平洋戦争は日本の敗戦によって終わった。日本を占領したアメリカ軍中心のGHQ(連合国軍総司令部)は、民主化など毛頭考えていない日本政府に対して、次々に戦後民主改革を指示・実行した。「1946年、政府は元号を国務的な事項と考えて、内閣法制局で元号法案を準備した。しかし、GHQの反対にあい、枢密院の審議にまわす前に取り下げた」(原武史・吉田裕編『天皇・皇室辞典』岩波書店、2005年)。
1947年5月3日の日本国憲法の施行によって、旧皇室典範と皇室令は廃止され、旧元号制度は廃止され、元号はどこにも明文化されないで法的な根拠を失った。しかし、当時の元号「昭和」が広く浸透していることを理由(口実)として、政府は「事実たる慣習」だといって、元号を存続させた。
1950年ころ、国会で元号の取り扱いについて議論が起こり、元号存続に否定的な意見が多く出された。1950年の参議院文部委員会で元号廃止法案が正式に検討され、「昭和」の元号は「昭和25年」で打ち切られる可能性があった。法案は、「昭和25(1950)年」で元号をなくして、翌年は「昭和26年1月1日」はなく、「1951年1月1日」とする内容だった。しかし、この「元号廃止法案」は他の法案を優先させたために国会に提出されず、元号廃止法案の動きは消滅した。10年後1961年に、自民党政府(池田隼人内閣)は元号制に法的根拠がないことを国会で答弁している。
元号廃止法案が国会に提出されなかった背景には次のようなことがあると推測される。
3 マッカーサーと昭和天皇による天皇制=国体維持の策動
GHQによる戦後の日本の民主的改革は不十分なまま終わり、東西冷戦の始まりによって1950年代前半から「逆コース」といわれるバックラッシュ(反動化)が進行した。朝鮮戦争を経て1953年10月、吉田首相の特使・池田勇人と米国国務次官補のウォルター・S・ローバートソンとの会談(池田・ロバートソン会談)によって、再軍備のために憲法「改正」を支持する国民を教育によって育てる、愛国心教育を強めること約束した。この後、教職員への攻撃や教科書攻撃が行われ、様々な反動の嵐が吹き荒れることになった。
不十分に終わった最大の原因は、連合国軍最高司令官マッカーサーとGHQが昭和天皇(ヒロヒト)の戦争責任を免罪して、天皇制を維持したためである。
昭和天皇は、1933年から45年の敗戦までの13年間に、大元帥として「御下問」「御言葉」を通じて少なくとも17件の重要な軍事作戦計画、具体的作戦の決定を左右する重大な影響を与えた(山田朗)。その面でも戦争責任を問われるべきだった。さらに、ヒロヒトは45年2月の近衛文麿の「戦争終結」の提言を拒否した。この時にヒロヒトが終戦を決意すればその後の東京大空襲などの都市空襲や沖縄戦はなかった。また、7月26日に発せられたポツダム宣言もヒロヒトは受託を拒否した。これらは、国体の護持が保証されるか否かにこだわったためである。その後の原爆投下もソ連参戦も、なにより日本の「ポツダム宣言受諾拒否」を理由に掲げて行われた。天皇ヒロヒトの戦犯容疑は明らかであった。
しかし、マッカーサーは占領政策・日本統治に天皇を利用した。マッカーサーは本国政府に書簡を送り、もしも天皇ヒロヒトを戦犯容疑で訴追し、逮捕することになれば、現在の占領軍に加え、さらに100万の軍と数10万の行政官が必要になるだろうと主張した。
このマッカーサーの政策は天皇ヒロヒトの天皇制維持=国体擁護の想いと一致し、天皇ヒロヒトは訴追も逮捕も免れ、天皇制=国体護持が行われたのである。ヒロヒトの国体護持の執念は45年8月15日の「終戦の詔勅(玉音放送)」にも表れている。「終戦の詔勅」はラジオで放送された、聞き取りにくい「玉音放送」の「堪ヘガタキヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」だけが多くの国民の記憶に残り、この部分だけが毎年反復されてきた。
しかし、「終戦の詔勅」で天皇ヒロヒトは、自分は他国を侵略したり領土を奪うことなど意図していなかったと戦争責任を否定し、「茲(ここ)二国体ヲ護持シ得テ」としているように、連合国との間で「国体護持」の約束を取り付けたのでポツダム宣言を受託して戦争を終わらせる、と述べている。そして、「神州ノ不滅ヲ信シ」「誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ」「爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ」と神州(天皇を中心とした「神の国・日本」)が不滅だということを信じて、国体=天皇制がますます栄えるようにお前たち(国民)は私(天皇)の意図をまもって励めと命じている。
以上述べたようなヒロヒトのメッセージと国体護持=天皇制の維持がその後の保守派・右翼による様々な策動の出発点となったといえよう。
4 元号法制化につながる60年代の反動化の動き
1958年~60年にたたかわれた戦後最大の「60年安保闘争」は、日米新安保条約は阻止できなかったが、最高時に33万人(主催者発表)が国会を包囲した運動は、岸信介内閣を打倒する成果をもたらした。これに危機感を持った日米支配層は、一方で、池田隼人内閣による「所得倍増政策」を推進して、国民の目を経済に向けさせながら、安保闘争を担った労働組合運動の分断や教育や思想分野での国民支配政策を推進した。その主な動きは次のようなものである。
(1)「忠君愛国」を説く「期待される人間像」
1965年1月、文部省中央教育審議会は天皇への忠誠などを打ち出した「期待される人間像」(中間報告)を発表した。その内容は、戦前の「国体の本義」「臣民の道」を色濃く反映した内容であり、「忠君・愛国」教育を強調するもので、大きな批判を呼んだ。
(2)紀元節の復活
1947年の日本国憲法の制定後に祝祭日の見直しがなされた時、政府は紀元節を復活させようとしたが、GHQの反対で紀元節は廃止された。その紀元節の復活を最初に主張したのは吉田茂である。吉田首相は、1950年7月14日、衆議院での施政方針演説で「愛国心の喚起」を呼びかけ、51年3月9日、参議院予算委員会で、「愛国精神をどうして高めるか」という質問に、「独立後は当然、紀元節は復活したいと考えている」と答弁した。
53年自由党議員らによって「建国記念日(紀元節)制定促進会」が結成され、毎年集会が開かれるようになった。第1次岸信介内閣の下で、1957年2月13日、自民党議員によって「建国記念日(紀元節)」の法案(「国民の祝日に関する法律」一部改正案)が提案された。法案は、衆議院は通ったが参議院で廃案になった。その後第7回まで、毎年国会に提出されたが廃案または継続審議になった。ところが、佐藤栄作が首相になると、65年2月、「議員立法ではなく政府提案として今国会に提出する」とう政府方針を決め、3月7日に第8回目の法案を提出した。この時は野党や国民が反対して廃案になった。66年6月2日、佐藤栄作内閣の下で、紀元節の復活を目指す「建国記念の日」法案が強行可決され、6月25日に公布された。この時には何月何日を「建国記念の日」とするかは決まらず、設置された「建国記念審議会」が同年12月8日、戦前の紀元節と同じ2月11日を「建国記念の日」とすることを答申し、紀元節が復活した。
(3)神社本庁の設立
57年の自民党議員による法案提出頃から、紀元節復活を目指す右翼勢力の運動が活発になった。この運動の中心には伊勢神宮・明治神宮・靖国神社などを中心として全国8万社の神社を束ねる神社本庁があった。
1945年の敗戦まで、「神権天皇制」「国体」の中心的イデオロギーであり、軍国主義の精神的支柱だったのが国家神道(神社神道)であった。国家神道によって神社を束ねていた政府省庁が神祇院だったが、敗戦後はGHQの「神道指令」によって国家神道も神祇院も廃止された。しかし、国家の保護をなくした神社勢力は、46年2月3日、神道人結集の中核として皇祖を祀る伊勢神宮をすえて、日本最大の宗教法人神社本庁を設立した。これ以降、日本のバックラッシュ(反動化)の中心勢力として神社本庁が重要な役割を果たすことになる。元号法制化でも極めて重要な役を果たしている。
(4)明治100年記念式典の開催や靖国神社国家護持法案
佐藤内閣は、68年10月に明治100年記念式典を開催した。69年5月3日には自主憲法制定国民会議(会長・岸信介)が結成された。こうした動きの中で、69年6月には、自民党が初めて靖国神社国家護持法案を国会に提出した。この時は審議未了となったが、74年5月25日、自民党は靖国法案を衆議院本会議で単独可決した(参議院で廃案)。76年11月10日、政府(三木武夫内閣)は昭和天皇在位50年記念式典を挙行した。
この時、後述する「日本を守る会」は「昭和天皇在位50年奉祝行列」を実行した。この提灯行列を取り仕切ったのが村上正邦(後述)で、明治神宮から潤沢な資金(3億円)を引き出し、各種宗教組織の動員によって「奉祝行列」は成功裏に終わった。
77年7月文部省は、学習指導要領において「君が代」を国歌と規定した。
5 元号法制化運動の「成功」で元号法成立
(1)「日本を守る会」の結成
こうした動きと並行して元号法の制定化運動が進行した。
1967年に建国記念の日を制定した政府・自民党や右翼の次の目標は元号法であり、政府(佐藤内閣)は68年に明治100年記念式典を挙行したことと合わせて元号法制化をねらい、72年、自民党は政務調査会の内閣部会に「元号に関する小委員会」を設置し、元号法制化の取り組みを開始した。こうした自民党の動きに呼応して民間レベルでの右翼勢力による元号法制化運動が活発化した。76年に官民一体で行われた「昭和天皇在位50年式典」なども活用して運動を盛り上げていった。
この右翼勢力の中で、主導的な働きをしたのが「日本を守る会」である。
「日本を守る会」は、臨済宗鎌倉円覚寺派貫主(当時)の朝比奈宗源(故人)が神道・仏教系の新宗教団体に呼びかけて、1974年4月に結成された。朝比奈宗源は、あるとき伊勢神宮に参拝した時、「お前は世界連邦、世界連邦と日夜叫んでいるが、足元の日本はどうか。脚下照顧を忘れるな」(藤生明『徹底検証 神社本庁』筑摩書房、2018年)と、お伊勢さんから『天の啓示』を受けた。朝比奈は、富岡八幡宮宮司の富岡盛彦(59年~61年神社本庁事務総長、故人)、「生長の家」総裁の谷口雅春(故人)と相談して「日本を守る会」の結成を呼びかけた。74年4月2日、明治神宮外苑の明治記念館で結成総会が行われた。発足当時の役員名簿には、明治神宮、浅草寺、臨済宗、仏所護念会、生長の家など宗教団体が名を連ねている。
「日本を守る会」は発足後すぐに元号法制化運動に取り組みはじめるが、この頃に、「日本を守る会」の事務局を取り仕切っていたのが後に「参議院のドン」とよばれた村上正邦元参議院議員である。村上は、生長の家本部職員を経て、生長の家を支持基盤にしていた玉置和郎参議院議員の秘書を1960年から14年間つとめ、74年の第10回参議院選挙に生長の家の組織票をバックに自民党公認で全国区(現比例)に立候補したが落選した。落選後は生長の家を代表して「日本を守る会」の事務局にいた。
村上はその後、再び玉置の秘書になり、80年の第12回参議院選挙に自民党公認で初当選し、生長の家政治連盟や神道政治連盟などの宗教票に支えられて連続4期当選した。村上の元政策秘書で、村上同様に生長の家をバックにした小山孝雄参議院議員が、2001年1月にKSD汚職事件で逮捕され、村上も01年3月1日受託収賄容疑で逮捕され議員を辞職した。村上は、東京地裁、東京高裁で有罪判決(懲役2年2ヶ月、追徴金約7,280万円)が出され、最高裁も08年3月27日に上告を棄却した。
なお、小山孝雄は、安倍晋三・中川昭一などが新しい歴史教科書をつくる会(「つくる会」)をバックアップするために、1997年2月27日に設立した日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(「教科書議連」、現在は名称から「若手」を削除)の幹事長代理を務めた。発足時の「教科書議連」の役員は、会長・中川昭一(故人)、事務局長・安倍晋三、幹事長・衛藤晟一だった。
(2)元号法制化運動と元号法の成立
77年9月に元号法制化を求める地方議会決議運動がはじまる。
この時の元号法制化運動を中心になって推進したのが「日本を守る会」であるが、なかでも大きな役割を果たしたのが77年に「日本を守る会」の事務局に入った「日本青年協議会」(「日青協」)1)であり、そのリーダーだった椛島有三(現日本会議事務総長)である。
生長の家を代表して「日本を守る会」の事務局を取り仕切っていた村上正邦は、1977年、同じ生長の家の信者たちが中心になって結成した「日青協」を「日本を守る会」の事務局に参加させる。当時の「日青協」の書記長は椛島有三であり、後述する右翼・民族派学生運動で村上に評価されて「日本を守る会」事務局に入った椛島は、実質的に事務を取り仕切り、元号法制化運動の進め方について次のように提案した。
「この法制化を実現するためには、どうしても国会や政府をゆり動かす力が必要だ。それには全国津々浦々までこの元号法制化の必要を強く訴えていき、各地にこの元号問題を自分たちの問題として取り上げるグループを作りたひ。そして彼らを中心に県議会や町村議会などに法制化を求める議決をしてもらひ、この力をもって政府・国会に法制化実現をせまらう」(椛島有三『日本青年協議会40年史』)。
この椛島の提起を受けて元号法制化を目指す「国民運動」が展開される。77年9月に元号法制化を求める地方議会決議運動が始まり、79年7月までに46都道府県、市町村の過半数の1632議会で決議を達成した。78年7月に各界代表を集めて「元号法制化実現国民会議」(石田和外議長・元最高裁長官、個人)が結成される。同7月には元号法制化の世論喚起にむけて全国47都道府県を縦断するキャラバン隊が派遣され、各地に元号法制化の都道府県民会議(地方組織)の結成が相次ぐことになる(この全国縦断キャラバンは以後毎年実施され、日本を守る国民会議―日本会議の主要な運動の形態として引き継がれている)。さらに、78年11月、日本武道館に1万人(主催者発表)を集めた「元号法制化実現総決起国民大会」を開催し、翌79年1月からは全国から法制化を求める国会陳情活動を実施した。こうした「国民運動」を受けて政府は、78年11月17日に元号法制化を閣議決定し、79年6月6日に元号法制化法案が可決成立し、6月12日に元号法が公布、施行された。この元号法制化の「国民運動」は、その後の右翼勢力の運動のやり方として、日本を守る国民会議・日本会議に受け継がれている。
(3)生長の家と日本青年協議会
1930年に谷口雅春が創設した「生長の家」は、戦前・戦中は「皇軍必勝」のスローガンの下に、軍部に貢献し戦争に協力して、天皇信仰や感謝の教えを説いた。戦後、強烈な反共主義者の谷口は、「明治憲法復活」「占領体制打破」など積極的な言論活動を行い、「右翼宗教家」として知られるようになり、60年安保闘争のころから、右翼的な政治・社会運動を展開していた。この成長の家の信者の子弟が1966年に「生長の家学生会全国総連合会」(「生学連」)(委員長・土橋史朗、土橋は高橋史朗の旧姓)を結成し、60年代後半の「70年安保」の学生運動に対抗して右翼的学生運動を展開し、この「生学連」を中心に「民族派の全学連」をめざして69年に全国学生協議会連合(「全国学協」)を設立した。
長崎大学の学生だった椛島有三は、後に生長の家の幹部になる安東巌と共に、1966年、生長の家学生会の学生たちを指導して、日本社会主義青年同盟(社青同)が占拠して授業中断が続いていた長崎大学を「正常化」することに成功し、この成功を基に、67年、全学連、全共闘に対抗する恒常的な組織として長崎大学学生協議会(「長大学協」)を結成して議長に就任する。
この動きは全国に広がり、69年5月に全国学生協議会連合(「全国学協」)が結成された。このような右翼・民族派学生による「学協」「全国学協」の動きが広がったのは、「生学連」の活動家・椛島有三の働きが大きい。
この「全国学協」のOBたちによって、1970年11月3日、「日本青年協議会」(「日青協」)が橿原神宮で結成された。この時の役員は、委員長・衛藤晟一(現・首相補佐官)、副委員長・酒井文雄、書記長・椛島有三(現・日本会議事務総長)、政策部長・伊藤哲夫(現・日本政策研究センター代表)、事務局長・米良紘一郎、編集局長・松村俊明(現・日本会議事務局長)などである。この「日青協」結成を中心になって推進したのは、椛島、衛藤、伊藤、高橋史朗、百地章、松村俊明、宮崎正治などである。高橋史朗は、早稲田大学在学中(当時の姓名は土橋史朗)に「生学連」委員長になり、「生学連」女子学生対策局長だった高橋こずえと後に結婚し、「入り婿」となって改姓して高橋史郎となった。高橋は「日青協」が設立した日本教育研究所の事務局長や副代表を歴任した。伊藤哲夫は新潟大学在学中から「生学連」で活動し、生長の家青年会中央教育宣伝部長などを務めた。生長の家が政治活動をやめた後、84年に日本政策研究センターを設立し、長く所長を務め、08年に代表になった。現在は日本会議常任理事で、20人いる政策委員の中心メンバーであるが、日本を守る国民会議、日本会議の中心的な「理論家」といわれ、安倍晋三の筆頭ブレーンといわれている。
以上のように、「日青協」を結成した彼らは今日の日本会議、右翼運動の中心メンバーである。
6 日本を守る国民会議から日本会議の設立へ
「元号法制化」運動を展開し「成功」した右翼組織は、1980年8月、元号法制化運動以降の国民運動を訴える全国縦断キャラバンを実施し、翌81年3月までに「日本を守る県民会議」が各地で結成された。こうした動きをつくりながら、改憲・翼賛の「国民運動」を展開する恒常的な組織として、「元号法制化実現国民会議」を発展的に改組して、1981年10月に「日本を守る国民会議」(「国民会議」)を結成した。
発足時の役員は、議長・加瀬俊一(初代国連大使、故人)、運営委員長・黛敏郎(音楽家、後に議長、故人)、事務総長・副島廣之(明治神宮常任顧問、元日本会議代表委員、故人)、事務局長・椛島有三である。「国民会議」は機関誌『日本の息吹』の創刊号を84年4月15日に発行したが、当時は月刊誌ではなかった(日本会議発足までに113巻が発行された)。この機関誌は日本会議になってからも「誇りある国づくりをめざすオピニオン誌」と銘うって同名の月刊誌として発行されている(2016年5月号で通巻342号になっている)。
「国民会議」の結成総会の基調報告で黛敏郎運営委員長は次のように述べている。
「日本を守るためには物質的に軍事力で守る防衛の問題と、更に心で、精神で守らなければならない教育に関係した二つ大きな問題がございます。この二つを統合する大きな問題として憲法がありますが、国を守る根源は、つまるところ国家民族というものをいかに認識するか、換言するならば天皇という御存在を如何に認識するかということが大切だと思います。
私共が憲法改正を唱えるにあたって、まず国家意識、ひいては天皇につながる国体というものをまずはっきりと確立するところから手をつけなければならないと考える次第です。つまり、憲法、防衛、教育の問題は、まず正しい国家意識と言うならば正しい愛国心の確立と言う根源的な心の問題から入らなければならないと思います」(『日本の息吹』第2号、1984年7月15日)。
以上のように位置づけ、憲法を「改正」して天皇中心の国をつくることを基本方針に掲げて活動してきた「国民会議」は15年後の1997年5月30日に宗教右翼組織の「日本を守る会」と組織を統一して日本会議を設立した。その前日の5月29日に日本会議国会議員懇談会(「日本会議議連」)が発足した。今日、日本最大の右翼組織として安倍政権を支える日本会議とそれと連携する「日本会議議連」は、元号法制化運動をルーツとする右翼組織、右翼議連なのである。
日本会議は今回の改元で安倍首相が4月1日に事前公表することにしたことついて、歴代天皇が即位後に改元してきた「代始改元」の伝統と、天皇一代に一つの元号とする明治以来の「一世一元」の制度を踏まえ、新天皇即位後の新元号決定と交付が「本来の在り方だ」と批判し、「遺憾の意を表明する」見解を掲載し、天皇代替わり前の元号の事前公表は「歴史上なかった」として、先例にしないように求めた(機関誌『日本の息吹』2019年2月号)。
「日本会議議連」も「新天皇即位時に公表されるのが原則だ」と批判し、5月1日の公表と新天皇による交付を求めていた。
※日本会議については、拙著『日本会議の全貌~安倍政権を支える巨大組織』(花伝社、2016年)、『日本会議の野望~極右組織が目論む「この国のかたち」』(花伝社、2018年)を参照されたい。
俵義文(たわら・よしふみ)
子どもと教科書全国ネット21代表委員。
福岡県生まれ。1964~2000年新興出版社啓林館につとめる。1998年子どもと教科書全国ネット21の結成に参加、事務局長に就任。
著書は、上記ほか、『ドキュメント「慰安婦」問題と教科書攻撃』(高文研、1997年)は、同年度日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞した。個人のホームページはこちら。
脚注
1. | ↑ | 「日青協」は、「祖国の文化と伝統を守り、現体制を打破して天皇中心の新体制国家の形成を期し、祖国日本を血縁的な思想共同体であるとの認識のもとに、民族の理想を現代に顕現させる」ことを目的とし、大日本帝国憲法(明治憲法)への原点回帰をめざす運動および日教組攻撃を通じて「教育正常化」に取り組む右翼・民族派組織である(『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年)。この「日青協」によって組織された教員たちが右翼的教職員団体「全日本教職員連盟」(「全日教連」)の中心的な担い手になってきた。また、新しい歴史教科書をつくる会(「つくる会」)や日本教育再生機構(「再生機構」)を支持し、育鵬社・自由社教科書を支持している現場教員の多くは、この「日青協」関係者や「全日教連」のメンバーである。日本会議事務総長の椛島有三が会長として率いる「日青協」は、今日では日本会議の事実上の「青年組織」として、日本会議と同じ場所に事務所を置き、日本会議の事務総局を担い動かしている。さらに、「日青協」は日本会議が改憲をはじめその時々の課題の宣伝などの目的で毎年実施する「全国縦断キャラバン」を担う「行動隊」の役割を担っている。「日青協」は、機関誌『祖国と青年』(季刊)を発行したが、『祖国と青年』は現在も機関誌として発行されている。 |