(第9回)何人も、自身の権利を用いるときは、悪意をもってなすものとは認められない。
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。
(不定期更新)
Nūllus vīdētur dolō facere, guī suō jūre ūtitur.
1~2世紀のローマ法学者ガーイウスの文章で、6世紀には学説法として法文にまでなっている。
これとよく似たものに、「何人も、なす権利を持たないことをなしたのではないかぎりは、損害を与えるものではない( Nēmō damnum facit, nisi quī id fēcit quod facere jūs nōn habet )」という2世紀の法学者パウルスの同様に法文化された法格言もある。
これらは、6世紀のユースティーニアーヌス法典の段階では、独立した一般的命題として認められたものである。議論の対立はあるけれども、そのおおよその意味は、ある者が、所有権を含む権利一般を行使する際、悪意を理由として追及されることはなく、また、権利行使だけではただちに違法な結果を生むこともないということである。極端な場合を持ちだすならば、自身にまったく利益とならず、他人にだけ不利益を与えるような権利の行使もかまわないことになろう。
ふつう、ローマ法上の所有権は、個人主義の結晶としての無制限・無義務の権利であるとされ、所有権の絶対性はローマ的法思想の代表的産物と考えられてきた。そのような見方が正しいとすれば、当然、所有権の行使は絶対的に合法ということになろう。これらの法格言を素直に読むと、以上のような考え方を裏付ける結論がひきだされてくるが、実は、それらとある面では対立する、同様に法文としての格を持った法格言も少なくはないのである。つぎにそれを示そう。
「許されていることすべてが立派というわけではない( Nōn omne, quod licet, honestum est )」(パウルスの法文化された命題)、「われわれは、自身の権利を不当に用いてはならない( Male nostrō jūre ūtī nōn dēbēmus )」(ガーイウスの著書に見える命題)、「邪悪は寛大に取扱われるべきではない( Neque malitiīs indulgendum est )」(1~2世紀の法学者ケルススの法文化された命題)。
それでは、ローマでは、前者に代表される原理と、それに対立する原理のどちらが本則であったのだろうか? 言うまでもないことだが、1000年間もの長い歴史のなかで変遷があった。ほぼ確実なことは、本来家長のみが持っていた支配権(妻に対する夫権、子孫に対する父権、奴隷に対する主人権、家財産に対する所有権を総合したもの)は、行使の際に習俗や慣習の側からの制約が加わったとしても、理念的・法的には絶対のものであったことである。道徳上の問題は別として、法の領域にかぎって言えば、そもそも、権利の濫用とかいわゆるシカーネとかの生ずる余地はなかったと見てよい。もし、かりに不当な事例が出た場合でも、ローマ人は、体質上、そのような一般原則で律することは好まず、なんらか別の方法で具体的に解決する方法を選んだにちがいない。
ところで、第7回で述べたように、弁論術(レトリック)が、法廷実務において無視できない力を持ちはじめたのは、旧来の都市国家的な、閉鎖的な農業社会の法としての古市民法が、形式を尊重するあまり、激動する時代の要請にマッチした具体的に妥当な解決を導く能力を失いはじめたことと大いに関係がある。弁論術は、ギリシアで完成された、人を説得する技術によって世間にアピールする衡平さや具体的妥当性を前面におしたてて、厳格な法学的思考にたちむかった。権利も、行使の態様によっては、衡平の見地から非難されるべきものとなるという考え方が生れたのはこのころからであろう。
ローマ法の中心的作品である学説彙纂や皇帝の勅法には、権利の不当な行使を阻止しようとする学説=法規定がかなり多く存在するし、絶対性のシンボルとされてきた所有権についても、「他人を害しないかぎり、各人が自身に利益を与えることは禁じられない( Prōdesse sibi ūnusquisque, dum aliī nōn nocet, nōn prohibētur 」(3世紀の法学者ウルピアーヌスの法文化された命題)というごく控え目な表明さえも見られる。法文資料全体を通観してみれば、不当な権利行使に対しては不利な取扱いが圧倒的多数であるが、そのように変わってきたのはもちろん法自体が哲学的にも深められるという内部的要因によるところが多かったが、そのほかに、キリスト教的な道徳観の法思想への影響を無視することはできない。そのような変化の時期の始めは4世紀ころとされている。
実は、さらに興味深いのは、その後の推移である。18世紀中ころ以来の私権本位の個人主義的私法制度は、前者の格言に端的に示されるような思想によって導かれていた。封建制度の残滓から解き放たれて、個人が個人として絶対的な権利を有することが高らかに確認された時期に、個人中心に組み立てられた法思想が支配的になるのは当然のなりゆきであった。ある一面ではきわめて強い個人主義的法思想で組み立てられたローマ法が歓迎されたのはそのためである。そこでは、権利の絶対性を示す前者のような法文が基礎となって中世以来作成されていた「自身の権利を用いる者は、何人に対しても不法を行なわない( Quī jūre suō ūtitur, nēminī facit injūriam )」とか「自身の権利を用いる者は、何人も害しない( Quī jūre suō ūtitur, nēminem laedit )」、「何人も自身の権利を用いることを禁止されない( Suō jūre ūtī nēmō prohibētur )」という法格言が基本原理として用いられた。ところが、権利本位の法体系が各方面で種々の矛盾を露呈しはじめると、今度は、逆に、同じローマ法の学説・法規定のなかから、権利にある程度相対的な力しか認めず、その濫用をチェックする方同で作られたものが抽出され基本原理として強調されて、つぎにこれを媒体として新しい法原理が生みだされることになった。「他人を害しないようにして汝の財産を用いよ( Sīc ūtere tuō ut aliēnum nōn laedās )」というかたちでこれが表明されることがある。19世紀末ころからこの傾向が認められ、各国の立法にもそれが明確に反映されている。「他人に損害を加える目的のみを有する所有権の行使は許されない」(ドイツ民法第226条)、「明白な権利の濫用は法の保護をうけない」(スイス民法第2条第2項)、「所有権は義務づける」(ヴァイマル憲法第153条第3項)、「権利ノ濫用ハ之ヲ許サス」(改正日本民法第1条第3項)がそれである。さらに、社会主義国家の法では、「私権は、その社会的経済的目的に反して行使される場合をのぞいて、法律上の保護をうける」(ソヴィエト・ロシア民法第1条)とまで定められている。「個人法から社会法へ」の流れに沿って、今後もいっそう権利の不当な行使が制約されていくであろう。
日本の権利濫用論について述べられる際リーディング・ケースとしてかならずひきあいに出されるのは、いわゆる宇奈月温泉事件で、昭和10年の大審院判決で最終的決着をみたケースである。その後昭和22年の民法改正では「権利ノ濫用ハ之ヲ許サス」の規定が設けられたので、この精神は明文化されている。その温泉は遠くから7500メートルもの長さの木管で湯を引いていたが、手ぬかりがあったらしく、他人の土地に木管を通過させていた。急傾斜の土地で他に使いようがなかったので、所有者も黙認していたのだろう。木管敷設後10年以上たったのち、ある男(原告)は、木管の通っているわずか約7平方メートルの土地を含む山腹の約1万平方メートルの広さの土地をタダ同然で購入し、温泉の経営者を相手どり、所有権を理由としてさきの引湯管の撤去と立入禁止を要求して、妨害排除請求の訴えを起こした。おそらく、原告は、30円ぐらいの値打しかない問題の木管敷設地をダシにして、大して利用価値もない土地を何と2万円でまとめて全部買わせようと圧力をかけたにちがいない。会社としては、木管を迂回させるには巨額の費用と1年近くの日数がかかり、迂回させると湯の温度が下がるし、土地の手当もできない状況であったから、そのような要求をのめば経営が致命的な打撃を受けることは必至であった。大げさに言えば、宇奈月温泉全体の命運はこの約7平方メートルの土地を通る木管にかかっていたのである。第二審判決をうけて、大審院判決は「即チ如上ノ行為ハ、全体ニ於テ専ラ不当ナル利益ノ掴得ヲ目的トシ、所有権ヲ以テ其ノ具ニ供スルモノナレバ、社会通念上所有権ノ目的ニ違背シ、其ノ機能トシテ許サルベキ範囲ヲ逸脱スルモノニシテ、権利ノ濫用ニ外ナラズ」と明快に断定し、上告を棄却した。
近代法理論では、言うまでもなく、権利の濫用の有無は裁判所の判定事項であるから、一方が争うことを断念しないかぎり、3つの審級を通過するのは5年近くはまずかかる。勝訴したと喜べるのは、おそろしく長い時間と費用をかけた後のことで、コスト倒れにもなりかねない。もともと権利は保護されるよう最大限の配慮を受けているから、この権利のある行使を濫用ときめつけるにはそれなりの儀式が必要なので、このような扱いになるのである。
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。