『病いと癒しの人間史 — ペストからエボラウイルスまで』(著:岡田晴恵)

一冊散策| 2020.03.27
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

あとがき

感染症の大流行とそれが引き起こす社会や歴史への影響に強く惹かれるようになったのは、ドイツ留学時代でした。古い石造りの下宿の薄暗い照明の下で『病気の社会史』『死の風景』(ともに立川昭二著)を熟読したのを思い出します。そして、そう思って歩いてみれば、ヨーロッパの古い街には、そこかしこに感染症の惨禍をしのばせる跡が残っていたのでした。

私の住んだマールブルクにも、ハンセン病の救いの神とされるエリーザベトの眠る古い教会があります。下宿の窓を開けると、目の前にその壮麗な教会の塔があり、鐘の音が響き渡って聞こえてきます。この教会の石柱は、中世から数世紀を経てハンセン病やペスト、さまざまな疫病や戦争の中で懸命に生きた人々の心を受け止めてきたのでした。

伝染病が猖獗する中で、極限にまで追いつめられた人々の精神と崩れて行く社会、変わりゆく文化や芸術、ときに歴史をも動かした史実を知ることは、公衆衛生を職務とした私には心に刺さる思いがありました。それは、私にとって感染症への新たな見方でもあったように思います。

以降、私は実験のかたわら、多くの書物を読み、ラテン語を学び、ドイツの街にその史跡を探し求めました。やがて、ただヨーロッパらしい美しい風景として眺めて通り過ぎた場所に、時おり胸を締め付けられるような思いで立ち止まるようになったのは、この土地の病からのひとかけらを私が学び知るようになったからでしょうか。

帰国後、私は、H5N1 型鳥インフルエンザからの新型インフルエンザ対策にも関わることとなりました。ヒトにも鶏にも全身感染を引き起こし、強い病原性のため高い致死率を示す、この H5N1 型高病原性鳥インフルエンザが世界の広い地域に拡大しています。2015 年 8 月現在では、前年のエボラ出血熱の流行で疲弊した西アフリカ諸国で家禽に流行を起こしています。この鳥インフルエンザが遺伝子変異を起こして、強毒性新型インフルエンザとなった場合には、スペイン・インフルエンザ以上の被害が出ると想定されます。

現代の感染症は、ひとたび発生すれば、瞬く間に世界的流行を起こしやすい社会環境が整っています。地理的には遠国で発生した新しい感染症であっても、高速大量輸送時代を背景に航空機で短期間に国内侵入し、大都市圏を中心に発達した鉄道網と道路網で瞬時に拡散して行きます。人口が集中した首都圏ではすぐに流行が拡大し、夥しい人々が同時感染を起こします。そして、患者が殺到した病院では医療従事者が院内感染して倒れ、先進医療を誇る日本であっても医療サービスの継続は極めて困難となるでしょう。物流業者の多くに感染者が出れば、医薬品、生活必需品も涸渇することも考えられます。自給自足の残っていた大正年間のスペイン・インフルエンザの時であってさえ、餓死者が出た事実を私たちは振り返らねばなりません。感染症の流行形態は、病原体と宿主だけでなく、その社会環境に色濃く影響されて形作られます。現代は、感染症、とくに飛沫や飛沫核で伝播する呼吸器感染症に極めて脆弱な社会環境ができあがっていることを認識しなければなりません。このような〝社会環境と感染症流行の形態の変容〟も、立川昭二北里大学名誉教授の研究から、学んだことでした。そして、私は、人類の英知によって、感染症流行の〝形〟を変えることができるのではないかと考えました。それが、ワクチン接種や薬の備蓄、対策計画の策定や感染症教育の実践であると思ったのです。

感染症の流行による大災害をいかに減災できるのか、その感染症対策に働いている中で、十年以上も続けている連載の一部が本書となりました。元『ヘルシスト』編集長の鏑木長夫氏、予防医学事業中央会の畠腹正明氏、そして、日本評論社の佐藤大器氏に深く感謝いたします。また、私にマールブルク大学医学部ウイルス学研究所への留学の機会を与えてくださいました皆様とアレクサンダー・フォン・フンボルト財団に感謝いたします。そして、御指導を賜った先生方に深く御礼を申し上げたいと思います。

二〇一五年 初秋 岡田晴恵

目次

  • 第1部 パラケルススの黒い森
    • 1. 宿という名の病院
    • 2. パラケルススの黒い森
    • 3. インノチェンティ捨児養育院 小児科学の芽ばえ
    • 4. 振り返る瞳
    • 5. 与謝野晶子とスペイン・インフルエンザ
    • 6. 一葉と肺結核
    • 7. ピエタに祈る ボルドーの記憶
    • 8. アンネ・フランクと発疹チフス
    • 9. フランツ・シューベルトと梅毒
    • 10. プラハのユダヤ人墓地
    • 11. 『櫂』に読むスペイン・インフルエンザ
    • 12. グリムの伝承の世界
    • 13. 向田邦子の桜島
    • 14. プラハのマリオネット劇場
    • 15. グリムの伝承の世界
    • 16. 煙突掃除夫のがん
    • 17. ドナウのくさり橋
    • 18. ブタペストの泣き柳
    • 19. 幸田文『おとうと』の結核
    • 20. セントルイスの新型インフルエンザ
    • 21. ブルージュの施療院
    • 22. 不治の病人の病院とレデントーレ教会
    • 23. 不治の病人の病院とキリストにささげられた教会
  • 第2部 クリスマス・キャロルのロンドン社会
    • 1. クリスマス・キャロルのロンドン社会
    • 2. ウィーン ペストの記憶
    • 3. マールブルク 公衆衛生の精神
    • 4. 昭和20年8月3日 甲州街道の少年
    • 5. 宇野千代『生きていく私』を読む
    • 6. アッシジのフランチェスコ
    • 7. 偉人秦佐八郎に学ぶ
    • 8. 手洗いの必要性 ゼンメルワイスの塩素水
    • 9. 八甲田山 雪中行軍の教訓
    • 10. アガサ・クリスティの描く先天性風疹症候群
    • 11. 不知火海沿岸、水俣で起こったメチル水銀中毒事件から半世紀を超えて
    • 12. レントゲン 清貧を貫いた生涯と不滅の業績
    • 13. 破傷風の話 東日本大震災の記憶から
    • 14. エボラウイルス病 スーダン綿工場で発生した奇病の正体
    • 15. ジョン・スノウの『感染地図』
  • あとがき

書誌情報など

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