(第23回)力を力でしりぞけることは許されている
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています(内容は付録掲載時のものです)。
(不定期更新)
Vim vī repellere licet.
2~3世紀のローマ法学者ウルピアーヌスの引用する命題で、6世紀には学説法として法文にまでなっている。
ひとむかし前なら立派なポルノであった「アルス・アマートーリア」の著者で悲劇の詩人オウィディウス(紀元前後の人)の手になる以下の命題の方が即物的でわかりやすい。「武器をもった者に対して武器をとることを法は許容する Arma in armātōs sūmere jūra sinunt. 」、ローマ法源には、「危険に対して自身を防衛することを自然の理は許している Adversus perīculum nātūrālis ratiō permittit sē dēfendere. 」とあって、正当防衛の根拠も明らかにされる。これらはよく知られている「正当防衛」にかんする格言であって、そのポイントは、「急迫不正ノ侵害二対シ」て、「自己又ハ他人ノ権利ヲ防衛スル為メ已ムコトヲ得サルニ出タル行為」が違法性を阻却されて、犯罪を構成しない点にある。不正な外部からの攻撃に対し反撃して防衛するのは、防衛目的という限度を超えないかぎりは、不正(違法行為)ではなく、堂々たる正(合法行為、義務・権利の発現)であると考えられている点に大きな特徴がある。法治国家のもとでは、私人が実力を行使して自力救済を行なうことが原則として許されないタテマエがとられている一方で、法秩序を維持していくには、上からの統制とともに私人側の積極的な姿勢も不可欠なので、両者のバランスをうまくとる必要がある。正当防衛はそういった要請の接点にある制度なのである。法政策の方向としては、正当防衛のテリトリーを拡大するようにもっていくやりかたと、縮小するようにもっていくやりかたの二つがあろう。
ところで、これは、人間の防衛本能に根ざした営みであり、古くから各民族が理屈ではなく身体で知っていたもので、むしろ法以前の問題であった。正当であろうとなかろうと、とにかく攻撃に対して反撥し、攻撃を何倍にしてお返ししても文句を言われる筋あいはないという原始状態から、今日の若干の条件つきの正当防衛までたどりつくにはずいぶんと長い道程があったことだろう。
正当防衛といえば、映画マニアの筆者にはまず、西部劇のことが頭にうかぶ。殺し屋稼業のガンマンは、いろいろと相手を挑発するような言動をして、相手に先に銃を抜かせ、一瞬早く倒すことにより、衆人環視のもとで正当防衛権を行使する手口で仕事をする。
さて、正当防衛には条文がちゃんと設けられている関係上、これは刑法のトピックとしては比較的理解しやすく、学説の対立もどちらかと言えば多くない分野である。学説上の位置づけとしては、これは、つぎに扱う「緊急避難」とあわせて「緊急行為」と呼ばれ、ともにとっさのさい自分の手で何とか危機を打開する方策を公認されたものである。正当防衛制度のラインのうえに、過剰防衛(正当防衛がオーバーランしたもの)と誤想防衛と特別法としてのいわゆる「盗犯等防止法」とがあるが、ここでは、いろいろな意味で悲劇的であった最近の事例に即して「誤想防衛」を分析してみよう。
1981年のある晩、10年も日本に在住するあるイギリス人が、路上で一人の女性が、男ともみあい、つきたおされるようなかたちで尻もちをついたのを目撃した。実はこの男女は酔っぱらいの仲間で、「店から出よう」「もっといたい」とかでもつれあっていただけなのだが、倒れた女の方が、外人さんを見て「ヘルプ・ミー」と叫んだとかで、彼はてっきり女が男に暴力を振われていると思い、二人のあいだに割って入った。そのとき、くだんの男が「ファイティング・ポーズをとったので」(被告人の供述による)、彼は男の顔に空手のまわしげりをくわせた。三段の腕前なら相当な打撃を与えただろう。その男は頭を打って8日後に死んでしまった。検察側は傷害致死で起訴、弁護側は正当防衛がらみで応戦する(被告人が自身およびその女性に暴行を加えてくるものと考えて行動したと言うのである)。判決は1984年の2月に無罪と出た。日本語をある程度理解していた被告人にわざわざ意味深長な「ヘルプ・ミー」の言葉が投げられたのも不幸だったし、「みだりに技を用いるべからず」という日本武道の精神を体得していないと察せられる外人の空手三段の達人とのめぐりあわせも偶然だったから、関係者一同に対してはとにかくお気の毒としか言いようがない。刑事事件としては無罪でも、民事的責任まで消えさってしまうわけではないだろうから、被告人も同じように不運だった。ここでは、「急迫不正ノ侵害」など全くなくて正当防衛は成立しようもないが、彼の場合、正当防衛の要件が備わっていると誤想して防衛行為に出たことについては、その当時の事情を考慮するなら過失が問いえないとされたことが無罪の根拠となっている。われわれの興味をひくのは、彼が自身の行為を「英国騎士道精神とキリスト教的隣人愛にもとづいて行なったもの」と強調したことで、「さわらぬ神にたたりなし」流の傍観者に陥りがちな日本人にはある種の感動をよんだ。「負けるが勝」、「長いものには巻かれよ」式のあきらめ心も正当防衛にはなじまないし、不正に対する反撃を可能にしてくれる武器などわれわれはめったにもちあわせていないから、正当防衛はもう一つわれわれの国民性にそぐわないところもあるような気がする。
国際法上の自衛行為と刑法上の正当防衛行為とは同じものではないけれども、アメリカやソ連のような超大国が「自衛」の幅をできるかぎり拡大し「守り」どころか「攻め」の姿勢をはっきりと示すのに対して、日本が、第二次大戦の痛手や苦い経験のせいもあってか、国を自衛することに対してももう一つ積極的な態度を示さず、その例として、自衛隊の増強に対してはげしい拒絶反応を示したり、「非武装中立論」に心情的支持を示したりするのも、深いところでこういう国民性とつながっているからかもしれない。
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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。