(第27回)知的障害を抱える被疑者(看護助手)が取調官に対し恋愛感情を抱いているのを利用して、事実に反する虚偽自白を誘導した─湖東記念病院事件
警察官、検察官の証拠隠しや捏造、嘘によって、そしてそれを見抜かなかった裁判所によって、無実の人が処罰されてしまった数々の冤罪事件が存在します。
現役時代、30件以上の無罪判決を確定させた元刑事裁判官・木谷明氏が、実際に起こった事件から、刑事裁判の闇を炙り出します。
(毎月中旬更新予定)
古い冤罪事件が続いたので、今回は最新の冤罪事件を紹介する。最新といっても、「無罪判決が確定したのがつい最近」というだけで、事件の発生は、すでに10数年も以前のことである。さすがに、前回までの事件と異なり「拷問」は行われていないが、今回紹介する警察官の違法行為は、「供述弱者」の特性に付け込んだ悪質なものというほかない。
湖東記念病院事件
- 大津地判平成17年11月29日(公刊物不登載)
- 大津地決平成3年3月30日(公刊物不登載)
- 大津地決平成27年9月30日(判時2385号113頁)
- 大阪高決平成29年12月20日(判時2385号101頁)
- 大津地決令和2年3月31日(判時2445号3頁)
1 どういう事件だったのか
平成15年5月、滋賀県東近江市にある湖東記念病院で、寝たきりの老人が心配停止状態で発見され、間もなく死亡した。警察は、当初、「老人の喉に挿入されていた呼吸器のチューブが外れたのに看護師が気づくのが遅れた」という業務上過失致死事件として捜査していたが、後に、当夜の当直の一人であった看護助手西山美香さん(以下「美香さん」)から「自分が呼吸器のチューブを抜いた」という自白を得た。事件は、一転して殺人事件になった。
2 捜査はどう進んだのか
当直責任者のA看護師は、当初、「自分が発見したとき、呼吸器のチューブが外れていた」と供述したが、最終的には「外れていたかどうかよく分からない」という供述に変わった。A看護師とともに発見した美香さんは、チューブの状態を確認していなかった。また、チューブが外れていたとすれば必ず鳴るはずのアラーム音を聞いた者は、一人もいなかった。そのため、捜査は難航した。
しかし、軽い知的障害を抱える美香さんは、Y警察官の厳しい取調べによって「アラーム音を聞いた」と虚偽の供述をさせられ、その後、「自分がチューブを抜いた」と供述するに至る。そして、この自白に基づき、美香さんは殺人罪で起訴された。
3 裁判の経過はどうか
美香さんは、公判で犯行を否認したが、1審の大津地裁は、美香さんを有罪と認め懲役12年に処した。美香さんの控訴・上告も棄却された。その後、美香さんは再審請求をしたが、地裁・高裁・最高裁ともすべて棄却された。その後行われた第二次再審請求も第1審の大津地裁では棄却された。
ところが、即時抗告審の大阪高裁は地裁の決定を取り消した上で再審を開始し、これに対する検察官の特別抗告も棄却された。
そして、続く再審公判で、大津地裁は、美香さんに無罪判決を言い渡し、検察官が控訴をあきらめたので、美香さんは、逮捕から16年ぶりに青天白日の身となった。
4 違法捜査の内容はどのようなものであったか
問題とされるべき捜査官の違法行為は多数あるが(後記参考文献➁参照)、ここでは、「虚偽自白の誘導(誤導)」に関する本件の特異な経緯と、重要な証拠書類の隠匿について説明する。
(1) 虚偽自白の誘導(誤導)
本件における最大の争点は、「(被害者の喉に挿入されていた)呼吸器のチューブを自分が抜いた」という美香さんの自白の信用性である。
本件では、警察も、2で述べたとおり、当初、看護師がチューブの外れに気づくのが遅れたという「過失」事件として捜査していたが、それにしても、チューブが外れれば必ず鳴るはずのアラーム音を聞いた者を発見できずにいた。そういう中で美香さんは、Y警察官の厳しい取調べによって、「アラーム音を聞いた」旨供述させられてしまう。すると、Y警察官はその後美香さんに優しく接するようになる。そして、軽い知的障害を抱える美香さんは、そのようなY警察官を自分の「理解者」であると感じ、恋愛感情さえ抱くようになった。
その後美香さんは、自分の供述によってA看護師が窮地に陥ってしまったことに責任を感じるとともに、Y警察官の関心をつなぎ止めるために、「自分がチューブを抜いた」と虚偽の自白をしてしまう。しかし、チューブを抜いたら必ず鳴るはずのアラーム音を聞いた者が一人もいないという従前からの問題点は、依然として解決されないまま残っていた。
警察は、チューブを抜いた場合のアラーム音の鳴り方を調べ、「チューブを外しても即座に消音ボタンを押し1分経過しないうちに次々にボタンを押せば」アラーム音が鳴らない仕掛けになっている事実を突き止めた。そして、この事実を前提に、美香さんに対し、「消音ボタンを押すとともに、1分経過する前に更に押す行為を繰り返した」旨の虚偽自白を誘導し、その旨の詳細な自白調書を作成した。
Y警察官もその上司も、美香さんがY警察官に好意を寄せていることを十二分に理解していて、この恋愛感情を利用したのである。Y警察官は、公判廷で、「美香さんが私の手に触れる甘えた仕草をした」「美香さんが、起訴されたら話ができなくなるので寂しいと言って抱きついた」などの事実を、堂々と認めている。
(2) 重要な捜査記録の不送致
起訴状では、被害者の死因は「急性低酸素状態」とされていた。
しかし、この死因には当初から疑問があった。確かに、検察官提出の解剖医N医師の鑑定書では、死因は「人工呼吸器停止、管の外れに基づく酸素供給欠乏」とされていた。しかし、呼吸器の管が外れていたかどうかに関するA看護師の供述は変遷していた上、先に述べたように、アラーム音を聞いた人物は発見されていなかった。さらに、被害者は、人工呼吸器で生存していた人物であり、チューブが外れなくても、痰の詰まりで呼吸停止に至ることは十分あり得たのである。そういう状況の中で、Y警察官は、N医師からの事情聴取において、「チューブ内での痰の詰まりにより、酸素供給低下で心臓停止したことも十分考えられる」という供述を得ており、その旨の捜査報告書(以下「N報告書」)も作成していた。しかし、警察は、このN報告書を含め、多数の証拠を検察官に送致していなかった。そのため、検察官はN医師のこの意見を知らず、もちろん裁判所も知らなかった。再審公判の段階でこのN報告書の存在を知った検察官は、控訴を断念した。
刑訴法246条は、警察が捜査をしたときは、速やかに書類及び証拠物を検察官に送致しなければならないと規定している。これは、起訴不起訴に関する検察官の処分は、捜査の結果収集した全ての証拠を総合してされるべきことを意味している。そういう意味で、起訴不起訴の判断に大きな影響を与えるはずのN報告書を検察官に送致しなかった警察の行為は、刑訴法のこの規定に明らかに違反する。警察の同様の行動は、他の事件でも往々にして見られるが、このような捜査慣行が冤罪発生の大きな一因であることは間違いない。本件における「N報告書未送致」の事実は、警察の組織的証拠隠匿工作の一環であると見られてもやむを得ないだろう。
5 裁判所の対応の問題点は何か
本件は、第二次再審の即時抗告審が問題点を的確に見抜いたため、美香さんは最終的に晴天白日の身になることができた。そもそも、呼吸器のチューブが外れた場合に、すぐ非常ボタンを押し、1分以内に再び押せばアラーム音が鳴らない仕組みになっていることは、看護師でも知らない事実であった。看護助手で知的障害のある美香さんが、「その事実を知っていて、非常ボタンを1分毎に押し続けた」という想定には、もともと大きな無理があったのである。
最終的に美香さんの嫌疑が晴れたことは喜ばしい。しかし、ことここに至るまでに美香さんが歩んだ途はまさに「茨の途」であった。警察が死因に関するN報告書を隠匿していなければ、美香さんはそもそも起訴されなかった可能性もある。しかし、それにも増して、裁判所が上に述べたような不合理を含む美香さんの自白を頭から信用してしまったことには、重大な問題があったというべきだろう。驚くべきことに、本件を審理した確定審以来第二次再審請求審までの裁判官合計20数名(最高裁判事および最高裁調査官を含む)は、揃いも揃って、美香さんのこの不合理な自白を信用し、誤った結論に至ってしまったのである。
6 参考文献
➀井戸謙一「湖東記念病院事件が問いかけるもの」判例時報2385号122頁
➁井戸謙一「湖東記念病院再審請求事件を闘って」判例時報2445号27頁
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1937年生まれ。1963年に判事補任官。最高裁判所調査官、浦和地裁部総括判事などを経て、2000年5月に東京高裁部総括判事を最後に退官。2012年より弁護士。
著書に、『刑事裁判の心―事実認定適正化の方策』(新版、法律文化社、2004年)、『事実認定の適正化―続・刑事裁判の心』(法律文化社、2005年)、『刑事裁判のいのち』(法律文化社、2013年)、『「無罪」を見抜く―裁判官・木谷明の生き方』(岩波書店、2013年)など。
週刊モーニングで連載中の「イチケイのカラス」(画/浅見理都 取材協力・法律監修 櫻井光政(桜丘法律事務所)、片田真志(古川・片田総合法律事務所))の裁判長は木谷氏をモデルとしている。