(第33回)考慮不尽と他事考慮(磯部力)

私の心に残る裁判例| 2021.02.01
より速く、より深く、より広く…生きた法である“判例”を届ける法律情報誌「判例時報」。過去に掲載された裁判例の中から、各分野の法律専門家が綴る“心に残る判決”についてのエッセイを連載。
判例時報社提供】

(毎月1回掲載予定)

日光太郎杉事件控訴審判決

土地収用法による建設大臣の事業認定を同法20条3号にいう「土地の適正且つ合理的な利用に寄与するもの」の要件をみたしていない違法があると判定した事例

東京高等裁判所昭和48年7月13日判決
【判例時報710号23頁掲載】

「日光太郎杉判決」として知られる昭和48年の東京高裁判決である。(個人タクシー事件や群馬中央バス事件の東京地裁判決など昭和の日本行政法判例史に鮮やかな先駆的軌跡を遺した一連のいわゆる白石判決の一つでもある。)

この「太郎杉」とは、日光街道の杉並木とは異なる。東武日光駅のほうから東照宮に向かうと、大谷川にかかる神橋の先に聳え立つ巨杉群の正面にあっていちばん目立つのが太郎杉で、その足許を通る国道120号線は、この箇所が川と老杉群に挟まれていかにも狭く、慢性的交通渋滞が起こる場所であった。時は昭和30年代後半、まさに地域開発とモータリゼーションの時代で、ましてオリンピックが開催されれば大勢の外国人観光客が日光に押し寄せること必然であるから、乱暴にもこの太郎杉をバッサリと伐って道路拡幅事業を実施しようと考えられたのも、無理からぬことだったかもしれない。

そうした開発優先の行政判断に対して明確にノーを宣言したのが、第一審の宇都宮地裁判決(昭和44年4月9日)で、本判決はこれに対する行政側の控訴を棄却したことになる。実は司法統制の手法としては地裁判決の方が余程大胆なのであって、「建設大臣は(本県道路拡張事業には)十分な公共性があるというが、裁判所はそう思わない」といういわゆる判断代置方式を採っているのである。それに対して本件高裁判決の特徴は、「建設大臣の裁量判断をそれとして認めつつも、その判断過程の合理性をチェックする」という斬新な手法を採ったことにあった。そのレトリックは次のようになる。

① 建設大臣の事業認定要件充足の判断は、事業計画の内容、もたらされる公共の利益、事業認定までの経緯、対象土地の状況、その有する私的・公共的価値等の諸要素、諸価値の比較衡量に基づく総合判断として行なわるべきものである。

② 建設大臣がこの総合判断をするにあたり、本来最も重視すべき諸要素・諸価値を不当・安易に軽視し、その結果当然尽すべき考慮を尽さず、または本来考慮に容れるべきでない事項を考慮に容れ、もしくは本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価したことによりその判断が左右されたものと認められる場合には、その判断は、裁量判断の方法ないしその過程に誤りがあるものとして、違法となる。

③ 本件における建設大臣の判断は、本件土地付近のもつかけがえのない文化的諸価値ないし環境の保全という「本来最も重視すべきことがらを不当、安易に軽視」し、環境保全の要請と自動車道路の整備拡充の必要性を調和させるべき手段・方法の探究において「当然尽すべき考慮を尽さず」、オリンピックの開催に伴う自動車交通量増加の予想という「本来考慮に容れるべきでない事項を考慮に容れ」、かつ暴風による倒木とこれによる交通障害の可能性や樹勢の衰えの可能性という「本来過大に評価すべきでないことがらを過重に評価」した点でその裁量判断の方法ないし過程に過誤があり、もしこれらの過誤がなければ異なった結論に到達する可能性があったのだから、本件事業計画が土地の適正かつ合理的な利用に寄与するものとする建設大臣の判断は、その裁量判断の方法ないし過程に過誤があり、違法である。

ほぼ50年の歳月を経た今になって再読してみると、法律論としてごく当たり前の論理展開という気もしてくるが、しかしこの当時は、まだまだ行政裁量といえば羈束裁量と自由裁量はどう異なるかとか、裁判所は実体判断代置が出来るのか手続的統制に留まるべきかといった議論が主流であった。その不毛とはまったく異次元のところで「考慮すべきことを十分に考慮しなかった(考慮不尽)」と「考慮すべきでないことを考慮した(他事考慮)」という判断基準を展開するこの判決の「しなやかで、かつ、したたかな」レトリックは甚だエレガントな魅力に満ちていた(と当時まだ若かった私には思えた)のである。

さらに有り体にいえば、単なる法律論を超えてもっと汎用的に、およそ人の判断というものの適正さを吟味する基準として、この「考慮不尽と他事考慮」という理屈がいたく身に沁みてしまったと言うべきかもしれない。実生活においてちょっと周りを見渡せば、理不尽なことを言い募る御仁はいくらでもいるが、そんな時にこの論法を使えばかなり有効な反論ができるのではないか。しかし逆に我が身に当てはめてみれば、内心ぎくりとせざるを得ないことにもなる。要するに人は皆、毎日毎刻、考慮不尽と他事考慮に満ちた判断を繰り返していると思わざるを得ないではないか。

ところでこの判断過程の統制手法とは一見客観性に富んだ方法に見えるのではあるが、果たして何が考慮すべき事項であり、何が考慮すべきでない事項(他事)なのか、どこまで考慮したら考慮を尽くしたことになるのか、あるいはならないのかを判定する客観的基準があるわけではないから、実質的には裁判官の主観的判断を行政の判断に代置させているに等しいのではないかという疑問が生じてくるのは当然であろう。たとえばオリンピックの観光需要を考慮することや、老杉が倒れる危険性を考慮することは本当に他事考慮なのかという批判は当初から存在した。あるいは、より一般的に考えて、開発によって生じる利益と失われる環境的文化財的利益を一つの秤に乗せて、どっちが重いとか判断できる(判断してよい)ものなのだろうか。確かに開発利益のみを考慮し、失われる環境利益のことをまったく考慮しないのは不可であるとしても、Aの環境利益は重く考慮に入れなければならないが、Bの環境利益の喪失は開発利益の大きさに比して許容できるというような判断は(実際にはそうするしかないのだとしても)、客観的な理屈で説明できるものではないと考えたほうが誠実だろう。

かくしてこの判決の先例性は、一見大きいようで、実務的にはそれほどでもなく、それなら無視できるかというと、行政法の教科書的には大きく扱われざるを得ないという、誠に不思議な位置づけを獲得して今日に至っている。

当の太郎杉と言えば、この判決のおかげで伐採を免れ、今日もなおその威容を誇っているのではあるが、ひっきりなしに排ガスを浴びせ続けられるその姿を見ていると、誠に気の毒という気もしてくるのである。


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磯部 力(いそべ・つとむ 東京都立大学名誉教授)
1944年生まれ。東京都立大学法学部教授、立教大学法学部教授、國學院大學法科大学院教授を歴任。著書に、『フランス行政法学史』(共著・岩波書店、1990年)、『自治体行政手続法』(共著・学陽書房、1995年)、『土地利用規制に見られる公共性』(共編著・土地総合研究所、2002年)、『新訂行政法』(放送大学教育振興会、2012年)など。