『複雑性PTSDの臨床実践ガイド:トラウマ焦点化治療の活用と工夫』(編:飛鳥井望)
はじめに
国際疾病分類第11版(ICD-11)により複雑性心的外傷後ストレス症(Complex Post-Traumatic Stress Disorder:複雑性PTSD)が公式診断として登場することとなり,わが国でもその概念についてはすでにいろいろな機会で紹介されている。また複雑性PTSDをめぐっては,いくつか新規の治療法の可能性についても議論が始まっている。しかしながら,ICD-11の定義にしたがって複雑性PTSDと診断された患者を対象とした治療効果の検証はこれからである。厳密な検証のためには,まず複雑性PTSDのための構造化診断面接法が標準化され,それによって診断されたさまざまな集団を対象として特定の治療法のランダム化対照試験(RCT)の結果が報告され,さらに定められた研究水準を満たしたRCTにより蓄積された結果のメタ解析が行われたうえで,エビデンスに基づいた治療ガイドラインが作成されることになる。そこにいたるまでには,少なくともこれから先10年程度の年月が必要になるかもしれない。ただし,これまでPTSD治療研究の成果の大半を産み出してきた研究大国である米国の診断体系DSM-5が複雑性PTSDを公式診断として採用していないことを考えると,複雑性PTSDの治療研究が今後どの程度迅速な進展を見せるか,予想しづらい面がある。いずれ将来は,エビデンスに基づいた複雑性PTSDの治療ガイドラインが欧州等から発信されることを期待したい。
本書の目的は,それまでの間,わが国の臨床家の指針となりうるような複雑性PTSDの臨床実践ガイドの提供である。副題を「トラウマ焦点化治療の活用と工夫」としたのは,複雑性PTSDもPTSDと同様にトラウマ記憶の処理が回復の重要な要素となることからすれば,まずはトラウマ記憶処理を治療の中核とするトラウマ焦点化治療を土台として考えるのが理にかなっていると思われるからである。
現在PTSDに対して最も有効とされ,海外の治療ガイドラインにおいて「強い推奨」レベルにあるのは,大人では持続エクスポージャー療法(Prolonged Exposure Therapy:PE),認知処理療法(Cognitive Processing Therapy:CPT),眼球運動による脱感作と再処理法(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:EMDR),子どもではトラウマフォーカスト認知行動療法(Trauma-Focused Cognitive Behavioral Therapy:TF-CBT)といった,各種の認知行動療法とEMDRを合わせたトラウマ焦点化治療である。そこで本書では,これらにナラティヴ・エクスポージャー・セラピー(Narrative Exposure Therapy:NET)を加えたトラウマ焦点化治療の各技法に関して,わが国における優れた臨床実践者であり指導的立場にもあるエキスパートの方々に,複雑性PTSDに活用する際の工夫と留意点についての執筆をお願いした。各執筆者は技法に精通しているというだけでなく,トラウマ臨床のエキスパートとして複雑性トラウマにかかわってきた経験と,臨床実践で培われたセンスと智恵をお持ちの方々である。
さて本書は,複雑性PTSDの治療論に関するタイムラインとしてもお読みいただけるものである。タイムラインの一端は,複雑性PTSD概念の提唱者であるジュディス・L・ハーマン(Judith L. Herman)教授による序章の論文である。本論文掲載の経緯について若干説明する。
1997年10月6日・7日の2日間にわたり,財団法人東京都精神医学総合研究所(当時)の主催による「第12回精神研国際シンポジウム:Research and Treatment of Posttraumatic Stress Disorder」が開催され,筆者がプログラム委員長を務めさせていただいた。そのとき招聘した8名の海外演者のうちのお一人がハーマン教授であった。同シンポジウムのプロシーディングスは精神医学専門誌“Psychiatry and Clinical Neurosciences, vol. 52, Supplement. Oct. 1998”の号として開催翌年に英文で刊行された。同誌上で発表されたハーマン教授の講演論文“Recovery from Psychological Trauma”を今回初めて邦訳し,本書序章として掲載することについて,ハーマン教授から快諾のお返事をいただき,出版社の許可も得ることができた。ハーマン教授が1992年の著作で複雑性PTSDを初めて提唱してから,まだ数年しか経っていない時期に発表された治療についての論考であり,まさに複雑性PTSDの治療論の原点ともなる内容で,本書序章として,これ以上ふさわしいものはないと思われる。
続く編者(飛鳥井)による第1章では,まずICD-11の複雑性PTSDの診断概念について解説したうえで,病態理解と治療論および治療の進め方について論述した。2018年にICD-11の複雑性PTSD診断基準が公表された以降に海外の成書で論述されている治療論の内容も適宜紹介しながら,編者としての考察を加えたものである。
第2~8章の分担執筆者は,すでに述べたように,いずれもわが国におけるトラウマ臨床とPTSDのトラウマ焦点化治療のエキスパートの方々である。技法としてはPE(第2,3,8章),TF-CBT(第3,4章),CPT(第5章),NET(第6章),EMDR(第7章)であるが,それぞれの章には複雑性PTSDの治療を進める際のポイントとして役立つさまざまな実践的内容が盛り込まれている。この20年間,PTSD治療論はトラウマ焦点化治療を主軸として発展してきたが,その中で複雑性トラウマを抱えた患者へのアプローチの苦心と経験も積み重ねられてきた。お読みいただければわかるように,各執筆者が複雑性トラウマを扱う際の臨床的英知の土台となっているのは,マニュアル化された技法への信頼と,信頼を裏づけるトラウマ焦点化治療の各技法の確固たる有効性のエビデンスである。なお,いずれの技法もわが国でトレーニングとスーパービジョンを受けることが現在は可能である。
終章では,タイムラインのもう一端に位置する2020年と2021年に報告されたオランダのグループによる複雑性PTSD治療研究の結果をまず紹介する。そこから得られた最新のエビデンスは,複雑性PTSDにトラウマ焦点化治療をいかに活用するかという本書のねらいが間違ってはいないことを示唆し,後押ししてくれているようである。終章の後半では,複雑性PTSDの治療において各技法に共通する工夫と留意点を要約し,改めて臨床実践ガイドとしてお示しした。
タイムラインはこれから先も伸びていくものであり,その途上では複雑性PTSDをめぐるさまざまな治療論や新規の治療法が今後も登場するかもしれない。しかしながら,将来的に複雑性PTSDの治療推奨が確立される時を迎えたとしても,本書に記された臨床実践ガイドの内容は決して色褪せることはないと確信できるものである。
最後に,本書の企画趣旨を理解され,編者の願いに快く応じて臨床のセンスと智恵の詰まった貴重な論考を寄せていただいた各執筆者の方々,ならびに講演論文の翻訳掲載をお許しいただいたハーマン教授には深く感謝している。また,本書の企画から発刊まで,編者の背中を押し続けていただいた日本評論社第三編集部の植松由記氏にこの場を借りて御礼申し上げる。
本書が複雑性PTSDの治療に取り組まれているわが国のメンタルヘルス専門職の皆様にとって,これから長きにわたってお役に立てるガイドブックとなることを心から願っている。
2021年9月
編者 飛鳥井望
目次
【第1部】複雑性PTSDの治療論
序章 トラウマからの回復……ジュディス・L・ハーマン
回復の礎となるもの/治療者の代理受傷について/診断的評価を徹底する/回復の3段階とは/サバイバーが社会的使命を感じるとき
第1章 複雑性PTSDの診断概念と治療論をめぐる考察……飛鳥井望
複雑性PTSD(CPTSD)の診断概念/CPTSDの鑑別診断/CPTSDの病態理解/CPTSDの治療論/CPTSD治療をめぐる2つの見解/CPTSDの治療の進め方
【第2部】精神科臨床の立場から
第2章 持続エクスポージャー療法(PE)を軸とした治療……岡崎純弥
複雑性PTSDとPEについて/本章における前提について/モデル症例/おわりに
第3章 持続エクスポージャー療法(PE)/トラウマフォーカスト認知行動療法(TF-CBT)の活用と工夫……亀岡智美
はじめに/臨床上の配慮事項/複雑性PTSDへの治療効果と治療の概略/症例/おわりに――症例の振り返り
第4章 トラウマフォーカスト認知行動療法(TF-CBT)の活用と留意点……八木淳子
はじめに/子どもの複雑性PTSD(CPTSD)への対応/TF-CBTによるCPTSDの治療/治療者のこころを守る支え/おわりに
【第3部】心理臨床の立場から
第5章 認知処理療法(CPT)の応用について……堀越勝
はじめに/認知処理療法について/認知処理療法の概要/認知処理療法の実際/おわりに
第6章 ナラティヴ・エクスポージャー・セラピー(NET)の活用と工夫……森茂起
ナラティヴ・エクスポージャー・セラピー(NET)の特質/NETの技法と治療メカニズム/時間軸の原理/対人関係感情の扱い/解離の扱い/リソースの発見/結語――人生史の共有に向けて
第7章 EMDRの活用と工夫……市井雅哉
複雑性PTSD(CPTSD)に対するEMDRのエビデンス/8段階と3分岐の標準的EMDRプロトコル/適応的情報処理モデル/CPTSDに対するEMDRにおける工夫/事例/おわりに
第8章 持続エクスポージャー療法(PE)の活用と工夫……齋藤梓
PEについて/複雑性PTSD(CPTSD)に対するPEの有効性/CPTSDに対するPEの活用/事例F――成人後に交際相手からのDV被害を受けた20代女性/事例G――児童期に継続的な性暴力を受けていた30代女性/PEの工夫/おわりに
【第4部】要約
終章 トラウマ焦点化治療による複雑性PTSD治療のエビデンスと要点……飛鳥井望
トラウマ焦点化治療による複雑性PTSD(CPTSD)治療の最新のエビデンス/CPTSDに対するトラウマ焦点化治療の活用/CPTSD治療のポイント/おわりに
書籍情報
- 飛鳥井望 編
- 紙の書籍
- 定価:税込 2,750円(本体価格 2,500円)
- 発刊年月:2021年11月
- ISBN:978-4-535-98503-2
- 判型:A5判
- ページ数:208ページ
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