(第6回)東アジアのなかの日露戦争(大日方純夫)
私たちが今、日々ニュースで接する日本の社会状況や外交政策を、そのような歴史的視点で捉えると、いろいろなものが見えてきます。
この連載では、「日本」と東アジア諸国との関係を中心に、各時代の象徴的な事件などを取り上げ、さまざまな資料の分析はもちろん、過去の事実を多面的に捉えようとする歴史研究の蓄積をふまえて解説していただきます。
現在の日本を作り上げた日本の近現代史を、もう一度おさらいしてみませんか。
(毎月下旬更新予定)
前回に続いて、高校教科書『詳説日本史』(改訂版、山川出版社、2018年)の叙述を確認しながら、日露戦争についておさらいしてみることにしよう。
1 日本とロシアは、どこで戦争したのか
『詳説日本史』に掲載されている「日露戦争要図」を見てみよう。四つに色分けされている。中央が「大韓帝国」、左上の広い部分が「清」、右下が「日本」、右上の黄緑色のわずかな部分がロシアである。「日本海海戦」以外、激戦の場所は「清」である。戦場は日本でもロシアでもない。日本とロシアが、なぜ、日本でもロシアでもない地域で、戦争したのだろうか。
日清戦争の結果、朝鮮では清の影響力が弱まり、朝鮮の内部では、日本にたよって近代化をすすめようとする勢力と、ロシアにたよろうとする勢力との対立が深まった(以下、武田幸男編『朝鮮史』山川出版社、2000年)。その後、次第にロシアの影響力が強まり、親露派の政権が成立して、一時期、朝鮮国王がロシア公使館に移るという事態も生まれた。こうしたなか、日本はロシアとの間で朝鮮に対する支配関係の調整を重ねた。他方、朝鮮は1897年、国号を大韓帝国と改め、国王が皇帝となった。
中国(清)では、日清戦争後の三国干渉により、日本が遼東半島を清に返還したものの、1898年、ドイツが膠州湾の租借権を獲得したのにつづいて、ロシアが遼東半島の租借権を獲得した。租借とは、条約によって1国が他国の領域の一部を“借りる”ことをいう。ロシアは遼東半島の要地、旅順に軍港(要塞)を、大連に商港を建設して、アジア進出の拠点とした。さらにロシアは、南満州への鉄道敷設権を獲得し、シベリアから満州(中国東北地方)の鴨緑江を経て旅順港に至る鉄道を布設しようとした。
1900年7月、ロシアは義和団事件で八ヵ国連合軍が中国に出兵した機に乗じて、満州に単独出兵した。北京議定書の調印後、清とロシアは交渉して、1902年の満州還付条約で、ロシアは満州を中国に返し、1年半以内に3回に分けて駐屯軍を撤退させることを約束した。しかし、1903年4月、ロシア軍は第2期の撤兵を停止した。ロシア内部で、極東の軍事力を強化して日本に対抗しようとする強硬派が台頭してきたからである。
その後、ロシアは鴨緑江を越えて、朝鮮の西北端、黄海への出口にある竜岩浦に至り、森林保護を名目に、同地を韓国から租借した。これに対し日本では、ロシアが軍事根拠地を建設し、満州から朝鮮に進出しているとして、批判と反発が強まり、対露強硬論が激しくなっていった。日本は朝鮮に対する経済的な支配を強め、さらに満州にも進出しようとしていた。
こうして、もともとは「日本」の範囲外、「ロシア」の範囲外の、満州と朝鮮半島をめぐって、日本とロシアの対立が激化していった。
早稲田大学名誉教授、専門は日本近現代史。
主著に、『警察の社会史』(岩波新書、1993年)、『未来をひらく歴史:東アジア3国の近現代史』(共著、高文研、2005年、日本ジャーナリスト会議特別賞受賞)、『新しい東アジアの近現代史:未来をひらく歴史(上)(下)』(共著、日本評論社、2012年)、『「主権国家」成立の内と外』(吉川弘文館、2016年)、『日本近現代史を読む 増補改訂版』(共著、新日本出版社、2019年)、『世界の中の近代日本と東アジア』(吉川弘文堂、2021年)など。