(第10回)ホモ・サケルとは、人民がその悪行のゆえにそのように判断した者のことである
機知とアイロニーに富んだ騎士と従者の対話は、諺、格言、警句の類に満ちあふれています。短い言葉のなかに人びとが育んできた深遠な真理が宿っているのではないでしょうか。法律の世界でも、ローマ法以来、多くの諺や格言が生まれ、それぞれの時代、社会で語り継がれてきました。いまに生きる法格言を、じっくり紐解いてみませんか。
(毎月上旬更新予定)
At homo sacer is est, quem populus judicavit ob maleficium.
アト・ホモー・サケル・イス・エスト・ポプルス・ユーディカーウィット・オプ・マレフィキウム
(フェストゥス『言葉の意味について』「サケル・モンス」)
フェストゥスは、2世紀後半ローマの文法学者で『言葉の意味について』「聖山(Sacer mons)」という項目のなかで、「ホモ・サケル」について論じている。「聖なる」を意味するラテン語のsacer(フランス語sacré、英語sacredの語源)には、2つの相対立する意味、つまり、「聖なる」と「呪われた」「穢れた」という意味があるといわれる。ホモ・サケルは、聖なるものの両義性という問題と深く関わっている。
モンテ・サクロ
ローマ中央駅(テルミニ)から北東に5キロほど離れた高台に、モンテ・サクロの住宅街が広がっている。現在は、ローマ市の行政区画である第16区の名称にもなっている。その麓をアニエーネ川(ラテン語名アニオ川)が蛇行しながら東から西へ流れていて、やがて南流してくるテヴェレ川に合流する。この地域に現在のような街並みが整備されたのは、20世紀になってからのことだといわれている。モンテ・サクロの名前は、ローマ共和政初頭の歴史を飾る身分闘争の舞台、「聖山」(Mons Sacer)に由来する。山と言っても、海抜50メートルほどの、小高い丘といったところである。
前6世紀の終わり、ある事件をきっかけにエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政へと移行した、と歴史書は語る。王政時代からの貴族(パトリキ)と平民(プレプス)の対立はこの間にますます大きくなっていった。前494年、平民が貴族に対抗すべく、ローマ市から武装して退去し、この山に立てこもり、貴族の譲歩をかちとったされる。リウィウス『ローマ建国以来の歴史』は第2巻で、平民のローマから聖山への退去を語っているが、その一節で、ピソ(前123年の執政官。ローマ建国から彼の時代までの『年代記』を書いた)による別伝を伝えている。これによれば、平民たちが最初に立てこもったのはこの聖山ではなく、ローマ市域内の南側に位置するアウェンティヌス丘であったということである。聖山への退去というエピソードは、護民官の身体不可侵の盟約(神聖法 lex sacrata)と関連づけた後代の創作ということになるのかもしれない。いずれにしてもリウィウスの時代には、平民の退去先をめぐって複数の伝承があったことは確かである。
1951年生まれ。広島大学名誉教授。専門は法制史・ローマ法。