ルッキズムと法(前編)(立石結夏)

特集/ルッキズムの「発見」と解放| 2023.03.10
昨今「ルッキズム」という言葉が使われることが多くなりました。ルッキズムとは何なのでしょうか? ルッキズムの何が問題なのでしょうか? 本特集では、まず問題とされるべきルッキズムとは何なのかを考え、そのうえでルッキズムを法的に問題とする場合の議論のありかたを探っていきます。

ルッキズムと向き合う必要性

「人を外見で判断し、差別してはいけない」ことは社会常識として定着している。

しかしながら、「人を外見で判断したことがない」と言い切れる人はほとんどいないだろう。人の外見の美醜は、社会のあらゆる場面で注目される。

時に、人の美醜の問題は法的紛争にも発展する。美醜をからかういじめやセクシュアル・ハラスメント、インターネット上で飛び交う他人の外見への非難、美容製品の消費者被害1)等である。

法的紛争に至らずとも、多くの人、とりわけ女性は、外見がその人の人生を大きく左右する場合があるため、外見を良くするための様々な工夫や努力を重ね、時にはその負担が過重となって、その人の一生に深刻な影響を与えている。外見の特徴によって自分に自信が持てなくなる、綺麗に整えなければ人前に出ることができない、痩身を目指した結果の摂食障害や、自分の体には外見上大きな欠点があると思い悩む人たちが醜形恐怖症と診断されることもある。

この社会では日常的に、どこでも、人の外見の美醜が話題となっている。そのことと、上記の問題は深く関係しているが、一体その何が問題なのだろうか。

特定の集団内で、他人の美醜が話題になるとき、多くの場合、そこにはただ「美しい」「美しくない」等という主観や感想を超えた一方的な評価を伴う。否定的な評価が問題であることは当然であるが、肯定的な評価であったとしても、外見評価をする側とされる側に分断され、女性/男性はこうあるべきという価値判断、すなわちジェンダーが見え隠れしたり、外見評価された側の人格や自己決定が軽んじられることが少なくない。

このような問題は「ルッキズム」と呼ばれている。本稿はこの「ルッキズム」と法を繋げるための試論である。

ルッキズムとは何か

ルッキズムとは、一般に、外見に基づく差別や偏見と定義されているが、時には、外見で、あるいは、少なくとも外見だけで人を評価・判断してはいけないという規範を表す外見至上主義の意味合いでも用いられている2)。また、筆者の印象では、特に外見が主題となっていないコミュニケーションや議論の場において外見に着目した言動を行うこと自体がルッキズムだといわれること3)もある。

ルッキズムと法の現在地

ルッキズムについては、社会学、心理学、経済学の分野で国内外の研究の蓄積があり、文芸や映像表現においてはよく取り上げられるテーマである。しかしながら、法学ではほとんど取り上げられていない。

それでも、筆者は「人の美醜に必要なく言及することや、まして人の美醜を理由とした差別的な言動は、ルッキズムであるから違法である。」と考えている。これは筆者の独自の見解であるが、筆者は、このように、ルッキズムを法規範に取り込むことには大きな価値があると考えている。

ただし、ルッキズムを法の問題として検証することは難問である。出発点として、ルッキズムを直接規制する法律はなく4)、ルッキズムによる差別的取扱いの事例検証が難しい。なぜなら、差別する側が差別的取扱いをしたという意識がないことも多く、差別をした痕跡も残りづらい。

例えば、企業求人の場面で、その企業の採用担当者が、職務内容と外見は無関係であるのに、求職者のうち外見の美しい者を採用し、そうでないものを不採用にする、いわゆる「顔採用」による不当な取扱いを受けた、と感じても、外見が美しい他の応募者が採用されたこと、外見が美しくないという理由で自分が不採用になったことの主張立証は困難を極めるであろう。そもそも、美醜の基準は曖昧で、時代や文化によっても異なるものであり、採用された者の外見が美しいという事実の立証すらできないのではないだろうか。つまり、美しい外見を持つ者が利益を得て、そうでない者に損害が発生したことの証明が困難なのである。このような背景があり、本邦の法学研究あるいは法務実務の現場では、ルッキズムの問題が取り上げられず、主観やモラルの問題だと思われてきたのではないだろうか。

しかし、かつてDV(ドメスティック・バイオレンス)が「法は家族に入らず」として規制されていなかったように、美醜の差別も個人の主観・モラルの問題であると片付けられてはいないか。これまで法が、ルッキズムの問題を、あたかも主観やモラルの問題として向き合ってこなかったため、ルッキズムは、社会全体、会社や学校等の組織、家族、一個人に深く根を張り、被害はよくあることと片付けられて一向に解決していない。裁判所の判決にさえルッキズムが表われることもある5)。ルッキズムは、個人それぞれの主観やモラルに委ねてよい問題ではなく、法律論の土壌にのせるべきなのである6)

たしかに、人が美しいかどうかということの立証は難しく、法と裁きに不向きな点はあるが、そのことは法の射程に入らないことを意味しない。例えばルッキズムによるハラスメントやいじめの問題は、被害者の美醜とは関係なく、加害者から外見に対する言及があったかどうか、ということだけ事実認定をすることができれば、法で解決できる。

何より、美醜の差別をしてはならない、不必要に他人の外見に言及してはならないという法規範があれば、即時に人々に行動の変容を求めることができる。DVだけではなく、セクシュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント等もかつては個々のモラルの問題であったが、法で規制されるようになったあと、多くの人がハラスメントをしないよう意識を変えていった。また、多くの差別はルッキズムを伴っており、ルッキズムを規制することで他の差別の解決に役立つこともあろう。

それでは、ルッキズムの問題をどのようにして法的に整理し、どのように論じていくことができるのだろうか。本稿後編で詳しく述べたい。

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脚注   [ + ]

1. 近時の消費者契約法改正により、社会生活上の経験の乏しい消費者が「容姿、体型その他の身体の特徴又は状況に関する重要な事項」に対する願望の実現に過大な不安を抱いている場合に、事業者がその不安をあおって消費者を困惑させて取引をした場合には、当該取引を取消すことができる(消費者契約法4条2項4号ロ)。背景にはルッキズムにつけこんだ消費者被害の広がりがある。
2. 西倉実季=堀田義太郎「外見に基づく差別とは何か」現代思想49巻13号8、15頁。
3. 例えば、外見とは全く無関係の場面において、不必要に放たれる外見に関する言及(「可愛い顔してすごいこというね」「そんなに怒るとしわが深くなるよ」)や外見評価(「美人過ぎるアスリート」、「美人作家」)が挙げられる。
4. ルッキズムを規制する法はないが、ガイドラインとして、職業安定法の下位規範である職業紹介事業許可基準がある。これによれば、収集してはならない情報として「容姿、スリーサイズ等差別的評価に繋がる情報」を挙げている。その他、「人事院規則10-10(セクシュアル・ハラスメントの防止等)の運用について」(平成10年11月13日職福-442)は、セクハラになり得る性的言動の例として、「スリーサイズを聞くなど身体的特徴を話題にすること。」を挙げるが、性的な関心、要求に基づくものに限定しており、ルッキズム対策として十分でない。
5. 立石結夏=石橋達成「女性らしさを争点とするべきか」法学セミナー2021年5月号49頁参照。
6. 米国の一部地方自治体には、身体的特徴(physical characteristic)や身体の状態または特徴、仕草あるいは服装、ヘアスタイル(personal appearance)を理由とした差別を禁止する州法や条例が存在している。 森戸英幸「美醜・容姿・服装・体型――「見た目」に基づく差別」森戸英幸=水町勇一郎編著『差別禁止法の新展開――ダイヴァーシティの実現を目指して』(日本評論社、2008年)に詳しい。

立石結夏(たていし・ゆか)
弁護士。第一東京弁護士会、新八重洲法律事務所所属。
「セクシュアル・マイノリティQ&A」(共著、2016年、弘文堂)、「セクシュアル・マイノリティと暴力」(法学セミナー2017年10月号)、「『女性らしさ』を争点とするべきか――トランスジェンダーの『パス度』を法律論から考える」(法学セミナー2021年5月号)、『詳解LGBT企業法務』(共著、2021年、青林書院)